今朝は雪はまだ残っていましたが、学校は通常通りあり、息子たちはそれぞれ学校に行きました。
長男は一緒に歩いてスクールバス停まで行きました。
道路も所々凍っていたので。
息子たちが行き渋りもなく学校に行ってくれるとほっとしますね。
次男を車で送るとき、学校の駐車場に着くとまだ雪が残っていて怖かったです。
そのあとはゆっくりのスピードでスーパーに行き、大量に食糧を買い、さきほど帰宅しました。
今日はゆっくり過ごそうと思います。
今日は続きを書いていこうと思います。
時間があるので最後まで書こうと思います、長くなるかもしれません。
こうやって振り替えると、改めて思うのが私はさんざんな幼少期を家で過ごしてきたのだなあとおもいますね。
昔は自閉症という言葉も療育という言葉も知られていない時代でしたし、勿論療育センターもデイなどもない時代で、次兄は療育というものを全く受けず育ちましたので。
我が兄ながらなんて人格崩壊してる人なんだとずっと思っていました(苦笑)
兄は小、中と特に大きな問題を起こすことはなく(担任の先生と揉めることは常にあったようですが)、高校も県内トップクラスの高校に進学しました。
高校からは少しずつ問題行動が増えていったのです。
高校から出てきた次兄の問題行動。
まずは遅刻、本当に遅刻が多かったように思います。
次に忘れ物、落とし物の多さ。
定期券、鍵、教科書、財布。
兄の変わりに警察に私が取りにいった回数は1度や2度ではありません。
その都度注意はしますが、次兄は全く聞き入れようとしませんでしたし、私に取りに行かすことは当然のことのように思っていました。
あと次兄の進学先の高校はアルバイト、原付免許取得が禁止だったにも関わらず、次兄は規則を破り、アルバイトもし、原付免許も取得しました。
問題はアルバイト先でもしょっちゅう揉め事を起こし、原付で事故を度々起こす。
幸い事故で大きなけがもなく、けがをさせることもなかったのですが。
その都度母が高校に呼び出しをくらい、先生方に平謝り。
(余談ですが、昔の進学校は生徒が問題を起こすとその都度保護者を呼び出し、校長、教頭、学年主任、担任と勢揃いで責め立てることが多かったように思います)
当の本人は全く反省はしておらず。
同じことを繰り返していました。
それでもなんとか高校を卒業し、大学も偏差値の高い関西にある某大学に進学しました。
大学入学後も相変わらず。
車の免許を取得、すぐに奨学金を申請し、そのお金で真っ赤な車を買いました。
ちなみに車の免許、実技はなんども落ちていたように思います。
奨学金で購入した真っ赤な車は、購入後半年以内に事故で破損。
残ったのは奨学金のローンの返済でした。
無意味な奨学金は30過ぎまで返済していました。
大学卒業後、最初に就職した会社は1年足らずで辞めてしまい、その後は1~2年で離職を繰り返していました。
そして37の時に次兄は知的なしの自閉症スペクトラムと診断されたのです。
大学時代の話は割愛しましたが、本当にその間も色々有りました。
そもそも兄が自閉症だと気づいたのは私です。
私が長男を出産し、自閉症スペクトラムと診断された際に色々勉強のために書籍を読んでいたのですが。
そのなかにあった「アスペルガー症候群」について書かれた本があったのですが、特徴がそのまんま次兄だったのです。
最初に次兄にそのことを指摘するとぶちギレていましたが。
でも数年後、なにかのきっかけで次兄は自分で病院に行くことを決め、そして「知的なしの自閉症スペクトラム」と診断されたのです。
診断されてからの次兄は良い方向に変わりました。
療育手帳を取得し、障害枠で微妙の経理で働きだしたのです。
いまも同じ病院で働いていて、もうすぐ5年になります。
次兄は私の息子たちに対してもとても優しく接してくれるようになりました。
そういえば一時期カナダに留学もしていたなあ。
独学で学んだ英語はペラペラで、英検一級も取得しています。
次兄はいま、平日は病院で働き、土日は図書館で英語の勉強をしたり、マラソンをしたりして過ごしているようです。
昔は大嫌いな次兄でしたが、いまは不思議と嫌いではありません。
息子たちと通じるものがあるからかもしれません。
ちなみに長兄はいま関東で働いており、結婚して2人の子供がいます。
息子たちのいとこになりますが、ほとんど顔を会わせたことはありません。
義姉は発達障害に理解は全くありませんし、長兄も仕事人間なので将来地元に戻ることもないでしょう。
私は次兄より、長兄のほうが苦手ですし、息子たちを毛嫌いしてる義姉にも会いたいとも思いませんし、これで良かったかもしれません。
ここまで3回に分けて兄のことを書いて行きましたが、これで終わりたいと思います。
次兄のことはなにかあればその都度書いていこうかなと思います。
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。