海辺のベンチで話す僕達の周りは夕日が落ち
電燈が点き始めていた。
僕は「覚えてるよ」と言った。
「ほんとにぃー?!」とあやは少し疑った。


僕は僕らのファーストキスを再現した。
いや再現するのはもう一度キスするための口実だった。
もうキスで顔を赤くすることのないあやは
このファーストキスの再現で頬を赤らめた。
僕はあの時とっさに抱きしめてキスしてしまったことや
手を出すことが早かったがあやとはプラトニックでもいいなんてことを告白した。
あやはさすがにそれは半信半疑だったが嬉しそうだった。


本当に僕はあやと肉体関係がなくても好きだと思える自信があった。
しかしセックスを我慢する必要のない現実に
セックスできないという状況にない今の状態で
プラトニックラブである必要がない。
つまり実際はあやと情事に耽ることを辞めることはなかった。

この日僕はあやにもう一度愛の告白をした。
あやは僕にとって特別な存在だと。
今までの恋人とは格段に違うと。
今までの恋人との経験はあやのためにあったと。
あやの今までの恋人も僕のためにあったんじゃないかと。
しかしそれは言えば言うほどあさはかに感じられた。
軽くあやを口説いているような感覚に陥った。
僕はやっぱりあやへの愛は言葉では表せないと告げた。
そしてエッチだけでも伝わるものではないことも告げた。
あやは喜んだり難しい顔をしたり照れたりうなづいたりした。

大学の講義で聴いたことを思い出した。
アイデンティティとは何か、という講義だった。
アイデンティティとは人の仕事や学歴や見た目ではない。
人が生まれた環境、育った環境、経験したことがその人のアイデンティティを形成する。
つまり僕が付き合ってきたこれまでの恋人も

僕のアイデンティティを形成する一部となっているのか。
確かにその通りだと思った。
僕を形成しているのは僕を取り巻く環境と人とのつながりだったのだ。
そんな僕をあやは好きだと言ってくれる。
他人の過去を詮索しない僕なのに、あやの過去や昔の恋人が気になった。
聞こうか聞くまいか少し考えた。
あやの顔を見た。かわいかった。
見た目や顔はアイデンティティではないと思いつつも
あやの顔や体を形成してきた環境や周りの人間に感謝の念まで生まれた。

カサノーヴァ「回顧録」にこんな言葉がある。
【全女性が同じ顔、同じ性質、同じ心立てをしていたのなら、     】
【男は決して不貞をはたらかぬだけでなく、恋をすることもないだろう】


この意味を少し理解できた気がした。
全ての女性があやだったら僕はあやに恋をしない。
全ての女性はあやという一人の女性を引き立てるために存在するのだ。
人嫌いの僕は、タイプでない女性や性格がキツイ女性、関わりたくない女性なんかは
あやをひきたてるために存在する、そう考えれば人嫌いが少し治った気分になった。

僕は心底あやに惚れていた。
危ないぐらい惚れているなと自分で思った。
愛することは独占したくなるからだ。


僕は昔に付き合ってた恋人にそういうことがあった。
よう子という名前だった。
彼女は僕の全てを知ろうとした、僕の心に土足で入ってきた。
そういう経験がはじめてだったがために少し楽しんでいたのかもしれない。
しかし僕の大学の時間割からアルバイトの時間帯やケイタイの着信やメール履歴まで
少しでも彼女の不満に引っかかれば泣いては怒り夜中まで話し合いをしたりした。


今考えるとよう子も自分で何を言っているのか理解できていなかったのかもしれない。
独占欲をだすことは、恋人の間に致命的な傷を与えることも。

僕はあやを独占したいと思う気持ちが危険だと思った。
あやにとって僕がよう子のようになるのを恐れた。
恋人のあり方マニュアルなんてものがあるのなら
絶対に独占欲は否定されているだろう。

僕はあやの部屋に泊まることはできるだけ避けた。
それも僕は苦い経験があったからだ。
部屋に二人で居ることに幸福感を感じそれだけでいいと思ってしまうからだ。
平気で大学を休んで仕事を休んで二人で居たい、それだけの日々はゴメンだ。
僕が経験した過去はまさに恋人二人で怠惰になるということだった。
僕が大学4回生で多く取り残した単位があったのはこのせいだった。
あやと二人で人間として落ちていくようなことは絶対に避けたい。
あやの甘い声に、寂しそうな表情に負けそうになる。
実際何度かは負けた。
しかし僕はあやと二人で前を見ていた。
立ち止まらないように。

あやとの関係はとても良いものである。
過去の経験を活かして二人は順調に愛を深めていった。
マンネリというものは微塵にも感じなかった。
僕は結婚願望なんかなく
結婚するにしても30歳かそれ以降だなと思っていた。
その結婚時期に変わりはなかったが
あやとの結婚は有りだと思った。

全てのことが前向きだった。
全てが前進していると思った。
そうあんなことが起こるまでは…。



一章終わり

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