彼女が席に着くまで何人かがきょろきょろ見ていたが、

周りからすれば彼女が友人を見つけて座ったというだけのことだろう。
彼女が僕の隣に座ってからは二人とも普通に講義を聴いていた。
講義はいつのまにかアイルランドの国旗の話は終わり、国名の話になっていた。


「アイルランドの正式国名は…」と言いながら教授は黒板に何かを書き始めた。
The Republic of Ireland


裸眼だがそんなに眼がいいとはいえない僕は広い教室の一番後ろに座ったことを後悔したが、
彼女が隣りに座って来たことを考えればここに座ってよかったと思った。
その彼女があやで恋人となった今では本当にあの日あの席に座って良かったと思う。


The Republic of Ireland なんかは黒板を見ないでも聞いただけで書けるから問題は無かった。
しかし次に教授は
「イギリスの正式名称は世界で一番長い国名です」といって、また黒板に書き始めた。
カッカッカッと黒板とチョークがぶつかる音が鳴っている。


これには眼をこらして黒板を見たが、いくらこらして見ても見えるものではない。
教授の言葉も聞き逃した僕は隣の彼女のノートを覗いた。
それに気付いた彼女は少しの方にノートをずらしてくれた。


The United Kingdom of Great Britain and Nothern Ireland
        
     イギリス正式名称 いちばんなが~い!?

と書いてあった。女の子らしいかわいい字だった。
僕はそれを書き写し軽く会釈をした。


いつもはノートなんて取るのは気分次第である、しかしこの日はきっちりノートを取った。
なぜだかはわからない。この時彼女を一目見ただけで恋をするような僕ではない。
しかし一目見ただけで何か彼女のことが気になっていたのは否定できない。
彼女と顔を合わせた時、

教室の後ろの窓から射す日が彼女の後光となり神秘的な演出をしたのかもしれない。
これが一目惚れというものなのか、一目惚れなどしたことのない僕には分からないことだったが、
人嫌いな僕が一目惚れなんかするわけないと否定する考えが押し寄せる。
しかし他人に興味のない僕が一目見て気になるようになったのは何かが起こっている証拠だった。

アイルランド考察の90分はそろそろ終わりを迎える頃だった。


そういえばこの子出席カードもらってないな…
出席カードは講義の初めに配られる、そして終わりに回収される。
僕は出席カードを余分に取る癖がある。その日も2・3枚取っていたのだ。
僕は出席カードを一枚取り出し、彼女の方へ机の上を滑らせて渡した。
彼女はそれに気付いて「あっ!」と声を小さく漏らして軽く会釈した。
まだ講義中だったので声を出すことはできないが
彼女はそういえば!という表情をして出席カードを受取り、
彼女の口は「ありがとう」と声にならない言葉と共に動いた。
彼女が受け取った出席カードに名前を書き始めた。
僕は彼女が書く名前を見た。

ノートを覗きこむのとは違って彼女には悟られないように眼だけを動かして。


そこにはさっきと同じかわいい字で【宮下 あや】と書いてあった。
宮下あや、かわいい名前だと思った。
人の名前を知りたいと思ったのも初めてだったし、このドキドキ
一目惚れとは絶対に違うと思う僕でも何かいつもと違うものだと認めた。


そしてアイルランド考察が終わり、ノートと筆記具をかばんにしまっていると
彼女が「あ、あのぉーありがとうございました。助かりました」
僕はドキドキを隠そうと、にっこり笑って「うん、いいよ」と言った、つもりだった。
にっこり笑えてたのかは分からない。女性と話すことに慣れていないわけではない。
しかし女性と話すことに慣れていないような男に見られなかったかが心配になった。
「しゅ、出席カードもありがとうございました」と言うのと同時に彼女のケイタイが着信した。
もちろん音は出ないがなにやら光っていて震えているのに僕は気付いた。
僕は「いいよ、いいよ」とまたにっこり笑った、はずだ。


彼女はそこで軽く会釈をして小走りで教室を出て行った。

その日は何かいい日だったなと思いながら帰路についた。
帰りの電車の中でもう会うことも無いかもしれないと思うと寂しくなった。
なぜ出席カードを渡すときに自分の名前や電話番号を書かなかったのだろうとか
名前以外にも学部や学年なんかも見なかったのだろうと後悔の念が生まれていた。



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