とあるマンガ作家さんが自殺したようです。
本当に残念な事です。
その原因の一つとされ、報道されているのは「原作とドラマ化されて作品」の違いについてトラブルがあったとか、かなり苦悩していたとか、ネットで叩かれたとか。事の次第はわかりませんので、それについては書きませんが、一つだけ「原作とドラマの違い」について少々。
まこれは、よくある話で、この作家さんは許せなかったのでしょうけど、仕方ない事なんですよ。こういうメディアミックスってのは、そもそもの出発点が違うものですから。
作家さんは、自分の主張したいこと、納得のいく「創作」を世に出すわけですが、ドラマ化や映画化は「如何に売れるか」を主眼として、その「ネタ」として作品を取り上げる訳ですから。全部が全部じゃありませんが。
この顕著な例が「主役の存在」。映像化される作品は、その内容も大切ですが「キャスティング」が大きな問題となります。なので、その主役を誰にするか?誰になったか?の時点で、作品の方向性も微妙に変化するのは、致し方ないところ。
一例ですが、漫画の「只野仁」だったか、それが映像化されたとき、主役は「高橋克典」さん。高橋さんがどうか?ではなく、このキャスティングで主人公のイメージは変わりました。高橋さんは、やっぱり「爽やか系」のイメージが強く、原作の「特命を帯びた総務社員」でありながら、多少「あくの強い」イメージは、高橋さんではさわやか過ぎると思われ、またTVですから、原作では大きな比重があった「女性関係」や「ベッドシーン」などは大幅にカットされ、結果「更に爽やかヒーロー」イメージが誇張される結果になった。こういうのは、「作家さんには本意ではない」だろうが、ある面で「致し方ない」部分。主役を誰にするかで「視聴率が変わる」という、命題が存在しますから。
また、最近映像化されている人気作家・池井戸潤氏はこうも言っている。「違う作品を見てるようで、どうまとまるかを見るのも楽しみ」と。要は、「映像化とは、そういう面から逃れられない」のであり、それを承知で許可していると、そういう事だろう。
今回の作家さんは、最初の段階から綿密な打ち合わせを重ね、条件を提示し、その上で「最後の2話」については「自分で脚本を書く」まで拘っていたようで、それでも難しかったというのが現状のようだ。また、過去にも2作品「映像化」されている実績もあった。
その上で・・・という事なので、本人の「苦悩・葛藤」は如何ばかりかと、残念でならない。
まあ、昨夏からすれば自分の子供のように育て上げた「オリジナル作品」と、数ある作品の中から「売れそうなもの」を選んで映像化するメディアでは、そもそもスタート時点から考え方が違い、それは「ここは譲れない」という点が同じであるはずがない。
言い方はおかしいかもしれないが、そして亡くなられたので不謹慎かもしれないが、こういう問題は、ある意味「必然」だとも言え、だからこそ残念でならない。周囲のスタッフなり出版社なり、もう少し配慮出来なかったのか?と。
言えることは「映像化」された時点、「キャスティング」された時点で、「別物」になるとそういう事ではないかと、オレは思います。映像化、特にTVドラマ化には「時間」というハードルがなず存在する。キャスティングは本当に重要で、同じ役を違う役者がやっただけで、まったく違う「主人公像」が出来上がり、見る者には「別の話」に見える事が少なくない。
ほぼ「全作品」が映像化された、内田康夫氏の「浅見光彦シリーズ」なども、主人公・浅見光彦は、最初は「水谷豊」さん。その後、京大卒の誰だっけ?が起用され、そして「榎孝明」さんになり、「沢村一樹」さんと続き・・・最後は誰だっけ?中村なんとかさん?だって?^^;
という事で、浅見光彦像が、役者によって多少は変わってしまう。内田さん本人は「一番イメージに近いのは榎さん」と言っており、榎さんは、その後「主人公の兄役」・浅見洋一郎でも起用された。
これなどは良い例で、シリーズもので時間的に「長期」になれば役者のイメージも変化する。その為「主人公を演じる役者」
を変えていかずるを得ず、そうなれば「作品」自体も微妙に変化しても仕方ないように思う。もし今でも「水谷さん」がやっていればと想像すると・・・笑
こういう問題は本当に難しい。言えることは「繊細な感性をお持ちの作家さん」であれば、やっぱり周囲の配慮は必要で、今回やらなかったとは言わないが、結果としてこうなった訳で・・・残念。それしかありませんね。病気や寿命?ではないですから。
謹んで、ご冥福をお祈りいたします。