今日はいよいよ「国葬」です。
色んな意見があり、賛成反対どちらもデモなども行われ・・・一つの見方とすれば「言論の自由」は担保されているし、共産党などの主張する「法の下に平等」も担保されているように思える。そういう意味では「民主主義を標榜する国家」としての健全性は示されているのだろう。
であるから、民主主義の根幹としての「議論(国会審議)」は必要だし、「手続き(審議と法解釈)」も重要だと感じ、その部分においてのみ「政権の失政」であることは、疑いようもない「事実」として残ってしまったという事だろう。
国葬の是非は、立場も考え方も違えば「色んな意見」が存在するのは当たり前。それを「持論に合わない」からと言って、相手方を批判するのは大間違い。それは民主主義の否定に繋がる・・・それが民主主義というものだろう。
振り返って、選挙運動での秋葉原の演説で、「あんな人たちに負ける訳はいかない」と反対意見の民衆に対して「啖呵を切った」のが、安倍さんだったという事実も皮肉なことである。自身の言動で民主主義を壊すような振る舞いは、当時から如何なものか?と感じ、国会で「ヤジを飛ばす」姿にも、国の代表者としての「品格にかける」と、オレは感じていたが・・・。
国葬の是非は、「国葬」について議論されるべき話で、生前の言動・功績、まあ「功罪」をひっくるめて議論すると論点がボケるのだが、これもまた致し方ない話。「なぜ国葬か?」と説明しようとすれば、「功罪」の「功」ばかりではなく「罪」の部分もクローズアップされる訳で、そうなるとどういう意見を言おうと「突っ込みどころ満載」となるのが当たり前。要は「葬儀」云々の話ではなく、「国葬」であるから色んな意見が「まかり通る」訳で、これが単純に「安倍家の葬儀」であり、「自民党の葬儀」であれば、ご自由にどうぞという話なのは、誰でもわかっている。
国葬の定義を持たない今の体制の下では、どんな説明をしようが「苦しい説明」であり、批判されることが当然想定される。それは「やっても・やらなくても」という事だろう。言い方は大変失礼だが「所詮は、その程度の話」にしか聞こえない。
葬儀云々については、そうは思わないが、国民の半分以上が理由はともかく「反対」の立場であり、どこまでいっても法的根拠のないものである以上、「国葬」としてしまった事で、「葬儀自体」の意味からも逸脱してしまったという事で、本来の「葬儀」の大切な意味合いが失われてしまった事実もまた、現政権の失政だと感じる。
オレはという事であ言えば、「お好きにどうぞ」としか感じないのだが・・・金目の話で言えば、そりゃ「あれだけの大金」を使って・・・という疑問は確かにあるが、それ以上に「国葬に値するのか?」とも感じ・・・よくわからないというのが正直な気持ち。死者に鞭打つ訳じゃないからこそ、「静かに送ってあげる」でもいいんじゃないかと。
金で言えば、今「必要なこところ」は山ほどあるのが国の現実。例えば「カナダのトルドー首相」は、正確にはわからないが表向きの理由として「自国の災害対策を優先する」という事で、直前に参加を取りやめた。
日本国内でも、そういう現実や山ほどあり、先日の静岡の例でもそうだが、毎年・毎年災害のない年はないくらい起きていて、それに対する「行政の支援」が足りているとは到底思えない。
コロナ関連は、この場ではおいとくとして、例えば「空き家問題」や「廃墟ホテル問題」なども、法整備が追いつかない面も確かにあるが、一番は「金」の問題。やりたくても金がない、それが現実ではないのか。
その他、「金が必要」で動かない「政策」も山ほどあり・・・というのが現実な訳で、五輪は今となって「金まみれ」が表面化し、あのざまだ。
東京都は「太陽光発電」を義務化するという。当初「年間4万戸のうち半分の2万戸」。その金は「施主負担」。こういう政策が「エネルギー問題」という言葉がつくだけで、素通りする「怖さ」をマスコミも報道しない。
こういう政策は「国会審議」や「住民投票」するくらいの「重要政策」であるはずが、「エコ」だの「エネルギー」だの「SDGs」などという言葉つけば、「間違いない」ものと解釈されるが、果たしてそうだろうか? 太陽光パネルの「環境アセスメント」すら、一向に提示もされず、「あれをやれば解決する」体で論理を構成する。おかしなことだと感じる。
まあ、一つ一つは「大した金じゃない」ようにも感じるし、必要だと言われればそうかもしれないが、国力が間違いなく低下している現状で、財政もひっ迫している今こそ、「問題だらけの民主党政権」がやったような、「仕分け」なり「見直し」なり、本当に必要ではないかと思うのだが如何なものか。ない袖を振るためにも、「ふれる袖を作る」ためにも、真剣に政策の重要度を策定し、「効果のあるよう」に重点的に金を使う。そういうのは民間では当たり前で、それを出来ない・やれない企業が立ち行き行かなくなるは、当たり前じゃないのかね?
そういう面でも、国が率先して見本となるようにするためにも、無理して「国葬」をやり、「無駄遣い」の批判を招くようなことは、もう少し「議論」してから決めたほうが良かったと、そういう事ではないのか。もしくは、「死後80日」もかけてやるより、死後2週間以内程度でやれば・・・まあ、これが正解かはわからないが・・・ここまで批判されることもなかったようにも思うのだが。
まあ、難しい問題ですね。どちらの言い分もわからない訳じゃないので。
何度も言うが、「決定へのプロセス」だけは、間違ったと、それだけは言えるという事でしょうね。