少し想像してみてください。

あなたは今、大変な空腹です。
意図的にファスティングをしている訳ではなく、
食べたいのに食べ物が無くて食べられない状態で3日以上が経過しています。
そのような食べ物に飢えて渇望した状態のあなたの前に
大きなオムライスが出て來て
『何も氣にせず召し上がれ』
と言われたら・・・。




もしも僕でしたら
その大きなオムライスにがっつくと想像します。

周りの目なんて氣にならない。
テーブルマナーなんて頭をよぎらない。
オムライスの味や香りや見た目にも拘らないでがっつく。
その時はオムライスにも差し出してくれた人にも感謝する間もなく、とりあえずがぶりつく。
何故、このような飢餓状態に至ったかなども考えられない。
感謝も考察や反省も後からで、とりあえず目の前のオムライスに全集中。


僕はつい最近でも飢餓状態になっているので、割りとすんなりイメージができました🤭
皆樣はいかがでしたか?☺️

これは食欲の例になりますが、睡眠欲や性欲でも同じようなことが僕の場合は起こります。

今の仕事ではまともに睡眠が取れないのですね。
すると、家に着くなり、風呂にも入らず布団に入る日々が続きました。

何も考えられない。
とにかく眠ることを優先していました。

また
性への渇望
というのが僕にはありました。

こちらは
45年以上ブロックとしてあって
特に意図的に禁欲している訳でもないのに
SEXができないことで
性欲の飢餓状態にありました。

ある時
このブロックに氣が付いて
SEXをしたのですが、
45年の飢餓状態にあって
一回のSEXでは満たされなかった自分がいました。

『もっと欲しい。足りない』
と。

それで、一旦SEXへのブロックは外れておりますから、がっつくように求めるのです。

オムライスにがっつくのと同じように
傍目を氣にせず、相手を思わず、
のような性欲の表し方になったんです。


自分で言っても
信じて貰えないかもしれませんが、
本來、僕はそういうタイプの人間ではありませんでした。

なんの欲求であれ
周りの思惑や相手の思いを慮りながら
行動するしないを選択できていたタイプです。

ただ
この飢餓状態の時というのは、
ある種の緊急事態で
理性もなにもなくなるほどに
自分の欲を満たす方向に向かいました。

それは傍から見ると
オムライスの食べ方のように
下品とか下衆とかに見えたと思いますし、
迷惑を掛けてしまった人もいます。

今振り返れば
そのように冷静に見られますが、
その渦中の時には見られなかったものです。


食欲・睡眠欲・性欲
というのは
僕の経験上
それらを満たしながら生きる事は必須だな、と。

それは当たり前の話なのかもしれませんが、
知識として知っているのでは無く、
僕は体感的に知っている。
経験として知ったのですね。


食欲はある一定で満たされていればこそ、
食べるものの味や香り、
盛り付けのデザインや
彩りとか
価格と見合っているか
時間との釣り合い
手間暇とのバランス
など
【ただの食べられる物】
から
【料理を樂しむ】
という藝術や哲学のような人間らしい食の在り方に昇華していきます。

【食育】というのも
大前提として
ある一定で食欲を満たせる状態が確保できていなければ、
先ずは生きる為に何でも食べられるものは食べよう、という形で留まるものだと思います。

睡眠欲も
より良い睡眠の確保をする為には
最低限度の大前提として
眠ることができる時間が確保された状態に無ければ、寝具の質や寝床の照明・室温や何時間続けて眠るのがベストなど考えるまでには至りません。

性欲も同じなんです。
もちろん個人差はあるでしょうが
最低限度の性欲が満たされていなければ、
【性愛】のような人間らしい高尚さにまでは至れない。
少なくとも僕の場合はそうだったのですね。


僕の人生というのは
愛について思い至るための人生である
と認識していますので、
愛に至る前の欲の段階から學べたというのは大変意味深いものだと思っております。

もちろん、そこには
闇と僕がいう苦しみはありました。
そしてその闇とは
僕の感覺では相当に辛いものでした。


それで
三大欲求が叶わない
という人生経験を経て
愛について思う時、
一言で申し上げるなら、
➖団欒への希求➖
があったと思うのです。

食欲を超えて
食べるという行いを思う時、
『団欒で食卓を囲えたらなぁ』
という思いが僕にはあります。

ここでの団欒とは
家族団欒に限りません。

自分の食欲を満たすだけなら
団欒は要らないのかもしれない。

しかし
食欲を超えて愛を思うと
団欒の意識が出てくる。

たとえば
・一人で食事していて寂しい
・一人で食事している所を見られたら恥ずかしい
・味などの感想を共有したい
のように思う時とは、自分以外の他者を必要としている自分がおります。

これは自分の食欲を満たすことの先の話になります。
ある程度の余裕がないとこうは思い至りません。

つまり
一人の欲を超えて
愛を思えば
他者の存在が現れるのですね。

・食べられる自分の健康に感謝
・料理が作れる自分にありがとう
・原料を作ってくれた農家さんに感謝
・原料をお店に運んでくれた方に感謝
・お店で売ってくれた店員さんにありがとう
のような思いも愛です。

そしてこのような愛も含めて
僕は➖団欒➖と呼びます。

ですので
家族の団欒だけに留まらない意味合いで
僕は➖団欒➖という言葉を用います。


親への愛を望むアダルトチルドレンとしての僕とは、言い換えれば➖団欒➖を望んだのです。

それは母との団欒であり
父との団欒であり
教師との団欒であり
友との団欒です。

もっと言えば
自分自身との団欒です。

愛と言えば愛で、
その事に変わりないのですが、
愛の意味があまりに広大ですので
➖団欒➖としています。

団欒には絆があります。
友情のような情もあり、
他者と自分への信頼もある。

愛よりも具体的なものをイメージし易いので
➖団欒➖の言葉を使いますね。

ですので
僕が望んだ愛とは➖団欒➖。
そして
その団欒が叶わないことで傷ついた
インナーチャイルドとしての僕が
大人になった今尚、希求するのは
やはり➖団欒➖なのです。

僕の夢とは
➖団欒➖を叶えること
と言えます。

もちろんその過程で
まず自分に向けられた愛に氣付く事として
今ある➖団欒➖に氣付いて感謝するというような過程を踏んでいきますが。


それで
インナーチャイルド(魂)がそのアピールとして
うまくいかない現実を創り出していた事実を思えば、
インナーチャイルドが幸せを感じる時、
現実に幸せな現象は起こると思います。

インナーチャイルドが
『ああ、この団欒って良いなぁ』
という幸せに浸る時、大人の僕も現実世界で生きながら幸せを感じる。

現実創造でインナーチャイルドと大人の自分は完全にリンクしている訳です。


欲の段階での渇望は
肉体の渇望の側面がありました。
生きていてこそですから
肉体だって
僕を生かそうとサイレン🚨を鳴らしてくれていて、それが欲の飢餓感でした。

この段階は個人が生き延びる為の
緊急事態による緊急サイレン🚨でしたが、
サイレン🚨が鳴り止めば、
個人から他者をも含んだものへの愛になります。

それが
食卓を囲むような団欒ですし
より良い睡眠(自分)とのパートナーシップとしての寝具や寝室環境との団欒ですし、
性愛を樂しみながら追求できるパートナーとの団欒になります。




僕は先日、靖國神社へ参拝した時
メッセージを戴いたんです。

『豊かさとは団欒で食べる手作りカレーだよ』
と。

数ヶ月前の事です。


その時の記事を添付しておきますね。



あの時のあの場所はどこかホーム感がありました。人生で初めて訪れた地でしたが。


麒麟も鹿も出迎えてくれているようにたくさん居て、僕にしか分からないかもしれませんが、かなりのマイホーム感に満ちていたんですね。
実家に帰ったような感覺です😊


その時に
➖団欒➖という言葉に出逢ったのですね。

メッセージには
“豊かさとは“
という枕詞がありましたが、
“愛“と置き換えても
“幸せ“と置き換えても通ずるものがあるように僕は感じて受け止めております。


インナーチャイルドとしての僕も
求めているものは
➖団欒➖でした。




今日はここまでです🪷

お読み戴き
ありがとうございました😊



またね👋🦌



➖もしも日本が団欒に満ちたなら➖


祭統 白宇
SHIR㊉W