世界は➖宝➖
世界は愛のフリーエネルギーで満ちている。
だから
愛は➖宝➖
愛とは魂(スピリット)
つまり
魂とは➖宝➖
魂が軀體と心を待った命を動かす。
ですから
命は➖宝➖
あらゆる命が世界を循環させている。
やっぱり
世界とは➖宝➖
心に闇(ネガティヴ)も光(ポジティブ)も在る。
それは
現実に夜も昼も在るように
現象としての闇や光のイベントも在る。
それらを一切合切包括して➖宝➖
それは
魂の視点での意図を感じ取るとそうなります。
➖人生とは愛び(まなび)➖
愛息子、愛娘、愛妻、愛弟子、愛犬、愛猫。
人生も同じように愛せば良い。
それで豊かだろう。
それが幸せだろう。
だから
➖人生とは愛び➖と僕は申します。
それはね。
もはや論理ではないのです。
言葉を繋げて理解するものではありません。
霊感の在る方は
御自身の霊感を言葉で説明しても
理解して貰えなかった経験があったりします。
霊感ですから。
感覺なのです。
痛いという感覺は共有できない。
本人にしか感じない。
美味しいという感覺は共有できない。
本人にしか感じられないもの。
霊感も同じですよ。
本人にしか感じられないものなのです。
しかし
他者は共感はできるのです。
痛みも味も共有できなくても共感が可能。
共感です。
感じ取るものなのです。
共に感じ取る事は可能なのです。
そこに論理も理屈も要らない。
痛みを言葉で訴えなくても
『ああ、痛そうだ』
と共感できるはず。
だから
手を差し伸べられる。
➖心➖なのです。
レストランの遠い席から
美味しいと言葉で食レポして貰わなくても
『ああ、美味しそうだ。美味しんだな』
と見知らぬ他人に共感できるはず。
だから
歓びを分け合える。
➖心➖なのです。
痛み(闇)も歓び(光)も
それは言葉で語るものではないのです。
霊感のある人が大学教授にそれを説明しても伝わらないのはその為。
言葉や論理の説明でも説得でもない。
つまり
心も愛も魂も
それは
感じ取るもので在り、共感し合うものなのです。
この共感し合う心。
ここに愛を感じませんか。
愛とは共感なのです。
心とは共感なのです。
魂はそれを愛びとするから
この世界に数多の命を創った。
共感し合える時、
人は感涙を流します。
共感は理解。
理解とは愛の別名です。
共感に言葉は要らない。
だから
音楽は國境を超える。
理解に言葉は要らない。
だから
ダンスは國境を超えるのです。
國境とは線引き。
天界の神々にすら線引きは要らない。
言葉ではない。
言葉という常識を超える。
愛なのです。
強いて言うなら
➖愛こそが共通言語です➖
上の空を眺めてもそこに神々は在りません。
お墓を眺めてもそこに故人は居りません。
➖心➖です。
➖心➖に全てが在る。
➖心➖がこの世界そのもの。
だから
共感こそ愛だし
共感をさして理解と呼ぶのです。
言う事を聞いてもらえない。
『こんなに正しい事を言っているに』
『こんなに一生懸命やってるのに』
こんな闇を僕は経験しました。
この時、僕には➖愛➖が無かった。
言葉ではない。
正論ではない。
正しさではない。
➖心➖
➖愛心(まごころ)➖の話なのです。
ですから
同じ事を述べても
『この人が言うのなら』
と無理な話が通ることが在る。
そこに利権が絡んでそうなる事も在りますが、
そうではなく何の利害関係のない場合に
たとえば
目を瞑る
見逃す
黙認してる
という場合が在るでしょう。
いわゆる【大人の事情】っぽいものです。
子供は正論を述べたがる。
常識的正しさを笠に着て。
でも大人は人生経験で愛を學んでいる。
だから
【大人の事情】で通るものが在る。
➖人生とは愛び➖
まさに
大人は人生で愛んでいるから思い遣れるのです。
愛の経験値が子供よりも在るという事です。
➖人生で愛んで來たのです➖
この時、言葉を超えているのです。
【大人の事情】を通すのは言葉では無い。
論理的に解釈すれば法律違反の事も在る。
上級國民だからという理由で
【大人の事情】を通す場合、
やはり
《上級國民だから》という正論を言っているでしょう。
言葉で正しさを証明している。
利害関係ではこうなる。
常識的、法律的にと論理的言い訳をする。
そこに愛は少ない。
心(闇)は多く在っても愛はとても少ない。
しかしそれもまた経験。
愛の経験。
ですから
➖人生とは愛び➖なのです。
なんだ、全部Shirowじゃん
という感覺です。
布団で目を覺まして
部屋の天井も壁も窓も空気も全部が全部
なんだ、Shirowじゃん
というごく当たり前の感覺のようにそう思ったのです。
➖全てがShirowじゃないか➖
見上げていた神樣も
なんとも感じていなかった樹々も
見下していた蟻んこも
全てがShirowという感覺が
昔から持っていた自然な感覺として僕は暫く過ごしました。
この感覺。
僕は全てが➖子宝➖と言っていますが
実はそうでは無いのです。
正直に申せば
全てがShirowなのです。
“全てが僕自身“と言えばそうです。
確かに言葉ではそうです。
ただ、人間としての僕では無い感覺が在る。
だから
《全てが僕》ではなく
➖全てがShirow➖なのです。
世界を創世し
その時から今もなお
世界を循環させているとすれば
それは世界に対してそうなると思います。
人の僕では感じられないもの。
視点も視座も人間の僕とは違う。
神もまたShirow
鬼も悪魔もShirow
天國もShirow
戦争もShirow
ダンゴムシもShirow
カーテンもShirow
換気扇もShirow
扇風機の音もShirow
パトカーもShirow
空氣も光も塵も垢もShirow
全てがShirowとして、
全て一つとして在りました。
あらゆる全てはShirowとして存在し
Shirowと戯れ合っている話だと理解したのです。
それは闇も戦争も苦しみも哀しみも同じ。
ただ戯れ合うという愛。
➖戯れ愛➖
人生を通して僕はShirowと戯れ愛をしていた。
だから僕は申すのです。
➖人生は愛びである➖と。
これでも普遍的な言葉に落とし込んで僕はお伝えしております。
しかし
共感して欲しいなんて言いません。
やはり言葉でどうこうでは無い。
不思議な話だと人間的自覺も有していますから。
Shirowさんと。
戯れ愛は軀體と心を持っていてこそ。
命の醍醐味です。
人間冥利に尽きるのです☺️✨
そして
今こそ言おう
在【我】尊‼️
言葉を超えて
在【我】統‼️エラン・ヴィタール(生命の躍動)とは
➖戯れ愛の歓び➖
その歓びが、愛が宇宙を回します🪐🌏🌕☀️
全っっ部が愛だし、命だし、魂だし
➖宝➖なのです。
回る宇宙、全っっっっ部が➖宝➖
何を恐れる
何を戸惑う
何を尻込む必要がある❓
さあ、戯れ合王(合おう)👑🪩✨
今日は太陽の愛巡(あめ)が心地良いからね☀️
燦々と降り注ぐ愛恵(あめ)の中、
公園で戯れ合うか😆🌳
➖祭統 白宇➖
➖Shirow➖
世界は愛のフリーエネルギーで満ちている。
だから
愛は➖宝➖
愛とは魂(スピリット)
つまり
魂とは➖宝➖
魂が軀體と心を待った命を動かす。
ですから
命は➖宝➖
あらゆる命が世界を循環させている。
やっぱり
世界とは➖宝➖
心に闇(ネガティヴ)も光(ポジティブ)も在る。
それは
現実に夜も昼も在るように
現象としての闇や光のイベントも在る。
それらを一切合切包括して➖宝➖
それは
魂の視点での意図を感じ取るとそうなります。
➖人生とは愛び(まなび)➖
愛息子、愛娘、愛妻、愛弟子、愛犬、愛猫。
人生も同じように愛せば良い。
それで豊かだろう。
それが幸せだろう。
だから
➖人生とは愛び➖と僕は申します。
それはね。
もはや論理ではないのです。
言葉を繋げて理解するものではありません。
霊感の在る方は
御自身の霊感を言葉で説明しても
理解して貰えなかった経験があったりします。
霊感ですから。
感覺なのです。
痛いという感覺は共有できない。
本人にしか感じない。
美味しいという感覺は共有できない。
本人にしか感じられないもの。
霊感も同じですよ。
本人にしか感じられないものなのです。
しかし
他者は共感はできるのです。
痛みも味も共有できなくても共感が可能。
共感です。
感じ取るものなのです。
共に感じ取る事は可能なのです。
そこに論理も理屈も要らない。
痛みを言葉で訴えなくても
『ああ、痛そうだ』
と共感できるはず。
だから
手を差し伸べられる。
➖心➖なのです。
レストランの遠い席から
美味しいと言葉で食レポして貰わなくても
『ああ、美味しそうだ。美味しんだな』
と見知らぬ他人に共感できるはず。
だから
歓びを分け合える。
➖心➖なのです。
痛み(闇)も歓び(光)も
それは言葉で語るものではないのです。
霊感のある人が大学教授にそれを説明しても伝わらないのはその為。
言葉や論理の説明でも説得でもない。
つまり
心も愛も魂も
それは
感じ取るもので在り、共感し合うものなのです。
この共感し合う心。
ここに愛を感じませんか。
愛とは共感なのです。
心とは共感なのです。
魂はそれを愛びとするから
この世界に数多の命を創った。
共感し合える時、
人は感涙を流します。
共感は理解。
理解とは愛の別名です。
共感に言葉は要らない。
だから
音楽は國境を超える。
理解に言葉は要らない。
だから
ダンスは國境を超えるのです。
國境とは線引き。
天界の神々にすら線引きは要らない。
言葉ではない。
言葉という常識を超える。
愛なのです。
強いて言うなら
➖愛こそが共通言語です➖
上の空を眺めてもそこに神々は在りません。
お墓を眺めてもそこに故人は居りません。
➖心➖です。
➖心➖に全てが在る。
➖心➖がこの世界そのもの。
だから
共感こそ愛だし
共感をさして理解と呼ぶのです。
言う事を聞いてもらえない。
『こんなに正しい事を言っているに』
『こんなに一生懸命やってるのに』
こんな闇を僕は経験しました。
この時、僕には➖愛➖が無かった。
言葉ではない。
正論ではない。
正しさではない。
➖心➖
➖愛心(まごころ)➖の話なのです。
ですから
同じ事を述べても
『この人が言うのなら』
と無理な話が通ることが在る。
そこに利権が絡んでそうなる事も在りますが、
そうではなく何の利害関係のない場合に
たとえば
目を瞑る
見逃す
黙認してる
という場合が在るでしょう。
いわゆる【大人の事情】っぽいものです。
子供は正論を述べたがる。
常識的正しさを笠に着て。
でも大人は人生経験で愛を學んでいる。
だから
【大人の事情】で通るものが在る。
➖人生とは愛び➖
まさに
大人は人生で愛んでいるから思い遣れるのです。
愛の経験値が子供よりも在るという事です。
➖人生で愛んで來たのです➖
この時、言葉を超えているのです。
【大人の事情】を通すのは言葉では無い。
論理的に解釈すれば法律違反の事も在る。
上級國民だからという理由で
【大人の事情】を通す場合、
やはり
《上級國民だから》という正論を言っているでしょう。
言葉で正しさを証明している。
利害関係ではこうなる。
常識的、法律的にと論理的言い訳をする。
そこに愛は少ない。
心(闇)は多く在っても愛はとても少ない。
しかしそれもまた経験。
愛の経験。
ですから
➖人生とは愛び➖なのです。
なんだ、全部Shirowじゃん
という感覺です。
布団で目を覺まして
部屋の天井も壁も窓も空気も全部が全部
なんだ、Shirowじゃん
というごく当たり前の感覺のようにそう思ったのです。
➖全てがShirowじゃないか➖
見上げていた神樣も
なんとも感じていなかった樹々も
見下していた蟻んこも
全てがShirowという感覺が
昔から持っていた自然な感覺として僕は暫く過ごしました。
この感覺。
僕は全てが➖子宝➖と言っていますが
実はそうでは無いのです。
正直に申せば
全てがShirowなのです。
“全てが僕自身“と言えばそうです。
確かに言葉ではそうです。
ただ、人間としての僕では無い感覺が在る。
だから
《全てが僕》ではなく
➖全てがShirow➖なのです。
世界を創世し
その時から今もなお
世界を循環させているとすれば
それは世界に対してそうなると思います。
人の僕では感じられないもの。
視点も視座も人間の僕とは違う。
神もまたShirow
鬼も悪魔もShirow
天國もShirow
戦争もShirow
ダンゴムシもShirow
カーテンもShirow
換気扇もShirow
扇風機の音もShirow
パトカーもShirow
空氣も光も塵も垢もShirow
全てがShirowとして、
全て一つとして在りました。
あらゆる全てはShirowとして存在し
Shirowと戯れ合っている話だと理解したのです。
それは闇も戦争も苦しみも哀しみも同じ。
ただ戯れ合うという愛。
➖戯れ愛➖
人生を通して僕はShirowと戯れ愛をしていた。
だから僕は申すのです。
➖人生は愛びである➖と。
これでも普遍的な言葉に落とし込んで僕はお伝えしております。
しかし
共感して欲しいなんて言いません。
やはり言葉でどうこうでは無い。
不思議な話だと人間的自覺も有していますから。
Shirowさんと。
戯れ愛は軀體と心を持っていてこそ。
命の醍醐味です。
人間冥利に尽きるのです☺️✨
そして
今こそ言おう
在【我】尊‼️
言葉を超えて
在【我】統‼️エラン・ヴィタール(生命の躍動)とは
➖戯れ愛の歓び➖
その歓びが、愛が宇宙を回します🪐🌏🌕☀️
全っっ部が愛だし、命だし、魂だし
➖宝➖なのです。
回る宇宙、全っっっっ部が➖宝➖
何を恐れる
何を戸惑う
何を尻込む必要がある❓
さあ、戯れ合王(合おう)👑🪩✨
今日は太陽の愛巡(あめ)が心地良いからね☀️
燦々と降り注ぐ愛恵(あめ)の中、
公園で戯れ合うか😆🌳
➖祭統 白宇➖
➖Shirow➖