価値を置くもの。
何に価値を置くのか。


➖人生のあらゆる事を通して
あなたは何に価値を見出して生きますか❓➖

このような學びのテーマが
僕の人生には在るのだと思います。




僕の両親からの學び。

父と母の在り方には違いが大きく在ったのですが、その差異から學んだ事は僕にとって大変大きなものです。


父はお金に価値を置く在り方。
母は外からの評価に価値を置く在り方。

そして
父は家に寄り付かない在り方。
母は家にこもる在り方。


父と母の在り方は違います。
しかし、
子供への無関心さが共通して在ったんですね。

その事はそのまま、
心への無関心さと言えるものなのです。

他者(子供を含む)の心だけに限らず、
両親自身の心をも含んだ無関心です。



子供の心や成長、日々の暮らしに関心が無い。
だから父は家に帰らなかったと思います。

仮に、妻を嫌っていたとしても
我が子に関心が在るのなら、
家に妻が居ても
それでも家に帰って來ていたと思うのです。

お金に価値を置いていれば
確かに子供の僕と関わる事はお金になりません。
保育士でも無い父ですから、子供の僕と関わる事でお金は生まれないんです。


子供に関心が在るけれど、
仕事が忙しくて会えないのなら
会えぬ子供に思いを馳せ
『どうしているかな❓元氣かな❓』
と電話を入れるという行動は
自然と出ると思います。

父はそのような行動も無かったんですね。
もちろん、顔を見にくるという事も顔を出すという事も。

父と僕達母子は
県外の遠くに住んでいるのでは無いのですよ。

同じ市内の話なんです。
電話せずとも
いくらでも寄れる距離の話なんです。

父は子供の僕に対して
やはり根本的に無関心なのです。

そして
父がお金を身にまとう事で
外からの評価は上がる訳です。
お金に価値を置いている。
その価値あるお金を身にまとう自分には
お金のお陰で価値がある、
と思い込んでいるのです。


お金の有無による他者からの評価を氣にした点で、母の持つ価値観と同じものが見て取れます。

その母は
他者からの評価に自分の価値を置いていた為、
他者からの評価で自分の価値が変動するのですね。
その価値の評価基準に
自分が産み育てている子供の僕も含めたのです。

自分の子供に対する他者からの評価に
母親(自分)の価値を置きました。

子供の僕が《できた子》と言われた時、
母の価値が上がるのです。

子供の僕が《できない子》と言われた時、
母の価値は下がるのです。

他者の評価は様々ですし、移ろうものでもあります。
ですから母の存在価値は揺らぎやすい。
高いところでの価値の安定も
母は望んでいたのです。


そして
外からの評価に重く価値を置いている為、
子供の僕の心に価値は無いんです。
僕の心や氣持ち、思いや興味や好奇心は
母の高いレベルでの安定的な価値を脅かす
邪魔なものですらあったのです。


僕の心の状態が外に表れ、
僕が静かに涙を流しても
『泣けばいいと思って』
と更に強く叱る。

僕の記憶では
泣きじゃくるとか泣き喚く
という事をした事がありません。

自然と涙が頬を伝うような静かな心の表ししか
記憶に残っていないのです。
意図せず涙が溢れ出る感覺の記憶。

ここを思うと、
僕の涙の記憶以前に
もっと幼い僕は
既に抑圧されていたのだと思います。


たとえば、學校の校庭で遊んで服を汚して帰れば
言葉や態度の叱責はもちろんですが、
殴る蹴るを一通りした後、僕の髪の毛を鷲掴みにしたまま家中を引きずり回す、という暴力を受けました。
そこに教育的なものは無かったです。
なぜ服を汚す事がいけない事か、
というような教育は一切ありませんでした。

毎日の暴言や無視などの態度と共に
頭を叩く、ゲンコツ、髪の毛をむしる、ビンタ、つねる
というのは生活に常にあって、
それが当たり前の事として僕にはあったし、
母にとってもそれが当たり前だったと思います。


父は常に不在です。
母子二人きりの家の中でした。

僕は静かに涙が溢れるくらいでしたから、
他者には見えないし聞こえない世界だったんです。

その家の中が僕の世界でした🌏


何か悪さをしたから怒られた
という記憶は僕には一つも在りません。

なので大人になってから
『あの時はイタズラが過ぎて、親からひどく怒られたなぁ😆』
というような怒られた内容に納得した上での笑い話を聞くと胸がほっこりするんですね😌✨
(※悪さ自慢、いわゆる武勇伝とは別次元のです🤣)



母としては子供の評判が氣になる訳です。

ですから悪い評判を受ける前に
僕の悪評価になるかもしれない芽を摘む
という事をしました。


休日に友達と遊びに行く事は禁止されていました。
母にとっては
僕が他者と関わる事で悪評価を未然に防いだんだと今にして思うのです。
別に僕はやんちゃな子供ではなかったのですが、
母の目にそこは映らない。
母にとって子供の僕とは
何をするかわからない脅威だったんです。

しかし
母は悪い評判の芽を摘み取るだけではなく、
母の評価を上げる事もしたいんです。

僕を友達と遊ばせない代わりに
塾や水泳や英語教室や
ピアノや習字や新体操教室まで通わせました。

僕(子供)の能力を上げる事で
僕の外からの評価が上がれば、
結果的に母の価値が上がるのです。
子供の時から僕に東大以上の學歴を求めたのも
この価値観が在るが故です。

(※ちなみにですが、僕から望んで通わせてもらった習い事はただの一つも在りません😌)


僕がそのように習い事で忙しいので
周りの友達から遊びに誘われる事もなくなり、
興味のないタスクをこなすように
習い事に通う日々を送りました。

習い事が終わって、家に帰る時の僕の心は
本当に重たいものでした。

家に帰れば母が一人
必ず居るんです。

僕の心は大変苦しいのですが
それを表に出さぬよう
平然を装い家に帰る日々でした。



ある時
『お弁当は要らない』
と母に言った事があるんです。

學校の友達の間で、
コンビニの菓子パンが流行った時があって、
僕もそれに興味を持って
『お弁当は要らない』と。

しかし母はお弁当を欠かさず作りました。

それは
母の評価に関わるからです。

僕の思いや希望に価値は無い。
ですから
『お弁当は要らない』
という子供の言葉に価値は無いのです。

完璧なお弁当を作り続けて持たせる。
母が体調不良で在っても必ずお弁当を作る。

(※僕は中學校と高校で皆勤賞を貰っているのですが、今思えば、ここに僕の意思は在りませんでした😌)

時は大きく過ぎて、
昨年、何十年ぶりに母と同居を再開したのですが、
母がお弁当を作ると言って聞かないのです。


僕は既に子供では無い。

勤め先に母が弁当❓
40代半ばの僕が❓

もちろん
『お弁当は要らない』
とかつてと同じセリフを母に言いましたが、
それでも母は作るのです。

僕から見ていて
お弁当を毎日作るのが苦痛に見えるんです。
母の態度にありありと出てる。

何度も何度も
『お弁当は要らない』
と僕が言ってもそれでも作る。


僕の氣持ちや意見が
今尚、母には届かない。


母は外からの評価に価値を置く為、
いわゆる外面(そとずら)が良いんですね。

お弁当も素晴らしいクオリティのものを
毎日作る。
子供の頃からそうでした。

他者には家の中が見えない訳です。
他者の目に映る母とは
毎日丁寧にお弁当を作る母なのです。

僕のいる世界
他者の見る世界。

そこの隔たり、ギャップ🌏


このような状況の中で
カサンドラ症候群
に僕は陥りました。


僕が20代の頃に
親戚に母との事を話した事があったのです。

しかし
僕が話す母と僕の事を
信じて貰えなかったのです。

その親戚にとって
母は完璧な人
という認識が強く、
僕の語る事は
ことごとく嘘の作り話のように扱われました。

追い討ちをかけるように
僕の學歴を僕自身の努力不足と叱責を受けました。

『そんなんだからお前は駄目なんだ』と。


上等なお弁当を毎日作るお母さん。
教育熱心なお母さん。
家で過ごすのが好きな上品なお母さん。

このような世界が
【僕以外がいる世界】なんです🌏



母は発達障害者ではありませんから
母と僕との関係性をさして
カサンドラ症候群
と僕が言うのは違うかもしれません。

しかしながら
カサンドラ症候群の解説を読むと
あまりにも僕の心情に合致するのは確かです。


父の不在という在り方は
僕への無関心を表していました。
母の僕への在り方は
僕の心への無関心を表していました。

僕への無関心に晒される中で
僕は自分を無価値としていったんですね🌎




でもね🌱✨

今思う事は
体験があったからこそ分かるもの
という事です。

カサンドラ症候群でも
僕に感情の実感が在るからこそ
自分事としてリアルに解説を読めるんです。
カサンドラ症候群の字面のみを追う読み方をしていない自分が居るのです☺️✨



愛というのは言葉に過ぎない。
そもそも
実際に愛が在る。
それを便宜上、言葉として表したものが愛なんです。

愛とは実在するものなんです。

六法全書に書かれている内容は
実在している事だから文字に表わせているのです。

殺人は現実に在るのです。
なぜ殺人は在るのか❓
人が実在しているからでしょう🤗✨
ゆえに六法全書に言葉で表せるのです。


経済學の本に書かれている事は、
事実として経済が存在するからこそ
文章としてそこに表せる。

経済を必要として動かすものは人間です。
そもそも人間が実在しているから経済は在る。
だから経済學は生まれたし必要とされる。
誰に❓
実在している人間にこそ🤗✨


愛もまた同じですよね❤️


どんなに愛について書かれた哲學書や論文を読んでみても、愛が分からないのは言葉だけを処理しているからと思うのです。

理系の神童は飛び級して大學に入れる。
しかし、文學部への飛び級の話を聞かない。

フランス文學で
愛のカタチを言葉で表現していても
読み手に体験を通した体感や実感が無ければ、
それはフランス語を文法的に処理しているに過ぎないのです。


『足し算が難しい』
という言葉と
『引き算が難しい』
という言葉の意味合い。

或いは
『算数が難しい』
という言葉と
『愛が難しい』
という言葉の意味合い。

この意味合いの違いとは
それこそ(‼️)
世界を隔てる程大きな違いが在るのです🌏l🌍

そのように思えば
愛って本当に体感や実感を伴わなければ
意味の分からないものだとつくづく思います。

感情という体感や実感だって、
本当に大切なものだと
僕は体感と実感を通してつくづく思うのです。


なのでね☺️✨


僕が生きる理由としては
愛を体験する為に生きたいから
というのがそうですね。

僕の価値は愛として定まっていますので。

愛をもっと自分に引き寄せて、受け入れて
体感と実感を得たいのです。感情を込めて❣️🥰



本を読むような座學は大事です。

その座學の學びを最大限に活かす為にも
人生の体験は必須と思っています。

体感や実感が在るのと無いのとでは
人生の意味が異なるのだという事を
僕は体感し実感しています☺️✨

哲學も心理學も文學も何でも
それは何を言葉で表しているのか❓

英語を學んだとして
あなたは何を英語で語るのですか❓

このような問いかけは
何の為に生きるのか❓
という問いに対する回答に繋がるのです。

そしてその回答に価値を置く場所が表れる。


そこを思えば
生きて体験する事は
座學と等しく重要なものと思います☺️✨


僕は何も知らない。

愛も人も世界も・・・僕自身も。

僕は何も知らない‼️

だから

僕は生きてもっと体験したい‼️‼️

体感と実感を‼️‼️
体動と感動を‼️‼️




ではまたね‼️👋

チャオ❣️😘


➖愛の反対は無関心。理解の反対は無生味です➖
(※無意味ではなく無生味(むいみ)です。
無生味とは人生体験をしているのに体感や実感が伴わない事。Shirowさんの創語😆✨)

by  祭統 白宇(Shirow)


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