生はエクスタシー | Imagine - Empty Boat

Imagine - Empty Boat

有漏路より 無漏路にいたる ひとやすみ 雨降らば 降れ 風吹かば 吹け - 一休


Imagine - Empty Boat

エクスタシーは人間が完全に忘れてしまっている言葉だ。
彼はそれを忘れるように強いられてきた。
彼はそれを忘れるように強制されてきた。
社会はそれに対立し、文明はそれに対立している。
社会は惨めさにこの上もない投資をしている。
それは惨めさに依存し、惨めさを食糧とし、惨めさによって生き延びている。
社会は人間のためにはない。
社会は人間を、それ自体の手段として利用している。
 
社会のほうが人間よりも重要になってしまった。
文化、文明、教会といったもののほうが重要になってしまった。
それらは人間のためのものだったはずだが、いまや人間のためにはない。
それらはほとんど全プロセスを逆行し、
いまや人間がそれらのために存在している。
 
子どもはみなエクスタシーに満ちて生まれてくる。
エクスタシーは自然なものだ。
それは偉大な賢者たちにだけ起こるものではない。
それは誰もが世界に持ち込んでくるものであり、誰もがそれと共に生まれてくる。
それは生のもっとも奥深い核だ。
それは生きているということの一部だ。
生はエクスタシーだ。
子どもはみなそれを世界に持ち込んでくるが、
そこで社会が子どもに飛びかかり、エクスタシーの可能性を破壊しはじめ、
子どもを惨めにし、子どもを条件づけするようになる。
 
社会は神経症的であり、エクスタティックな人びとがここにあることを許せない。
彼らは社会にとっては危険だ。
その仕組みを理解しようとしてみなさい。
そうすればものごとはもっと簡単になるだろう。
 
エクスタシーに満ちた人をコントロールすることはできない。
それはできない相談だ。
コントロールできるのは惨めな人間だけだ。
エクスタシーに満ちた人はいつも自由を失わない。
エクスタシーとは自由であることだ。
彼を奴隷の境遇におとしめることはできない。
彼はそう簡単には叩きつぶされないし、
彼を牢獄に住むように強いることはできない。
彼は星々のもとで踊りたがるだろうし、風と共に歩きたがるだろうし、
太陽や月と話をしたがるだろう。
彼は広大なもの、限りなきもの、巨大なもの、測り知れないものを必要とする。
彼を暗い独房のなかで暮らすよう誘うことはできない。
彼を奴隷にすることはできない。
彼は自分の人生を生きて、自分のしたいことをする。
これは社会にとってはじつに厄介なことだ。
多くのエクスタティックな人びとがいたら、社会は崩壊してしまう、
その屋台骨は持ちこたえられないと感じる。
 
エクスタティックな人びとは反逆者だ。
いいかな、私はエクスタシーに満ちた人を「革命家」ではなく「反逆者」と呼ぶ。
革命家とは社会を変革しようとする人だが、
彼はそれを別の社会で置き換えようとする。
反逆者は個人で生きようとし、世界に固定した社会構造があることを望まない。
反逆者はこの社会を別の社会と置き換えることを望んではいない。
なぜなら、社会というものがすべて同じであることは明らかだからだ。
資本主義者と共産主義者と全体主義者と社会主義者はみな従兄弟の関係にある。
彼らのあいだに大差はない。
社会は社会だ。
教会というものはみな同じだ――
ヒンドゥー教であろうと、キリスト教であろうと、イスラム教であろうと。
 
構造がいったん権力を握ってしまうと、
それは人びとがエクスタシーに満ちることを許さない。
なぜなら、エクスタシーは構造に反しているからだ。
よく聴いて、この言葉に瞑想してみるといい――
エクスタシーは構造に反している。
エクスタシーは反逆的であって、それは革命的ではない。
 
革命家は政治的な人間だ。
反逆者は宗教的な人間だ。
革命家は別の構造を、自らが欲したものを、自らのユートピアを望むが、
構造というものはみな同じだ。
彼は権力の座に就きたい。
彼は圧政者にはなりたいが、しいたげられる人にはなりたくない。
彼は搾取者にはなりたいが、搾取される側には回りたくない。
支配はしたいけれど支配されたくはない。

反逆者は支配したくはないし支配されたくもない人だ。
反逆者とは世界にいかなる支配体制も望まない人だ。
反逆者はアナーキーだ。
反逆者とは人間がつくった構造ではなく自然を信頼し、
自然なものが損なわれなければあらゆるものは美しくなると信じている人だ。
そして、それはほんとうだ!
 
これほどの広大な宇宙がいかなる政府もなしに動いている。
動物たち、小鳥たち、樹々、あらゆるものがいかなる政府もなしに動いている。
なぜ人間には政府が必要なのか? 
なにかが間違っているに違いない。
なぜ人間は支配者なしでは生きられないほど神経症的なのか?

いまやそれは悪循環になっている。
人間は支配者なしでも生きられるが、
彼は一度もその機会を与えられたことがない――
支配者はあなたがたにいかなる機会も与えようとはしない。
ひとたび支配者なしでも生きられることを知ったなら、
誰が彼らの存在を望むだろう? 
誰が彼らを支持するだろう? 
たったいまあなたがたは自らの敵を支持している。
あなたがたは自らの敵に投票している。
二人の敵が大統領選挙に立候補して、あなたがたはそれを選ぶ。
どちらも同じだ。
それはまるで監獄を選ぶ自由、
入りたい監獄を選ぶ自由を与えられているようなものだ。
しかもあなたがたはうれしそうに投票する――
僕はAかBの監獄に入りたいんだ、
私は共和党の監獄を信じる、僕は民主党の監獄を信じる、と。
だが、どちらも監獄だ。
そしていったん監獄を支持してしまうと、監獄は独自のやり方で働きかける。
そうなったら監獄はあなたが自由を味わうことを許さない。
 
だから、子どもはごく幼い頃から自由を味わうことを許されない。
なぜなら、いったん自由というものを知ってしまったら、
彼は譲歩しようとはしないし、妥協しようとはしないし、
暗い独房のなかで暮らそうなどという気はさらさら起こさなくなるからだ。
たとえ死を選ばなければならないとしても、
彼は誰かが自分を奴隷の境遇におとしめることを許さない。
彼は自己を主張するだろう。
もちろん彼はほかの人びとに対して権力を振るうことに興味を持つことはない。
そういったものは神経症的な傾向だ。
人びとに対して権力を振るうことに興味を持ちすぎていることは、
あなたは深いところでは無力であり、
権力を持たない限り
ほかの人びとに圧倒されてしまうのではないかと恐れていることを示している。
 
マキャヴェリは「攻撃こそ最大の防御なり」と言っている。
自分を守るには先制攻撃をしかけるのがいちばんいい。
東洋であれ西洋であれ、世界中のいわゆる政治家たちは
深いところではごく弱い人びとであり、劣等感にさいなまれており、
政治的な権力を持たない限り誰かに搾取されてしまうのではないか、
搾取されるぐらいなら搾取するほうがましだと考えている。
搾取される者も搾取する者も、どちらも同じ船に乗っており、
どちらもその船を助け、その船を守っている。

子どもがいったん自由の味を知ってしまうと、
彼は二度と社会の、教会の、団体の、政党の一員にはならない。
彼はひとりの個人にとどまり、自由なままでいて、
自分のまわりに自由の躍動感をかもし出す。
彼の存在そのものが自由への扉になる……。
 
いつであれ子どもが幸せを感じていると、なにをやっているときであれ、
かならず誰かがやって来て彼を止めてしまう――
「そんなことをしてはいけない!」と。
だんだんと子どもは「僕が幸せを感じることは間違っているんだ」と
理解するようになる。
そしてもちろん、彼は他人がしろと命じたことをやっても少しも幸せを感じない。
それは彼のなかから自然に湧き起こってきた欲求ではないからだ。
それで彼は惨めと感じることが正しいのであり、
幸せと感じることは間違っているのだと知るようになる。
そういった深い連想が生まれてくる。
 
学校の教室の外でふいに一羽の小鳥が歌いはじめたら、
もちろん、子どもは一心にその小鳥の声に耳をそばだてる――
醜いチョークを持って黒板のそばに立っている算数の教師ではなくて。
だが、教師のほうが小鳥よりも力を、政治的な力を持っている。
確かに、小鳥には力はないけれど、美しさがある。
小鳥は「よく聞け! これに集中しろ!」と頭を叩くことなしに
子どもを魅きつける。
単純に、自発的に、自然に、子どもの意識は窓の外へと流れ出してゆく。
それは小鳥のもとへと至る。
彼のハートはそこにあるが、目は黒板のほうを見なければならない。
見たいようなものなどなにもないが、そのふりをしなければならない。
 
幸せであることは間違っている。
幸せになるたびに、なにかが間違っているのではないかと
子どもは恐れるようになる。
 
子どもが自分の肉体と遊んでいたら、それは間違ったこととされる。
子どもが自分の性器と遊んでいたら、それは間違ったこととされる。
それは子どもの生にとってはもっともエクスタティックな瞬間のひとつだ。
彼は自分の肉体を楽しむ。それはわくわくするような体験だ。
だが、すべてのわくわくする感じは切り捨てられなければならないし、
すべての歓びは打ち壊されなければならない。
それは神経症的だが、社会は神経症的だ。
 
両親たちにも彼らの両親から同じことがなされた。
彼らは子どもたちに同じことをやっている。
このようにして、ひとつの世代が次の世代をだめにしてゆく。
このようにして、私たちは神経症をひとつの世代から次の世代へと伝えてゆく。
地球全体が精神病院になっている。
誰もエクスタシーというものを知らないように見える。
それは失われている。
障壁に次ぐ障壁がつくりだされてきた。
 
ここでは日常的に観察されることだが、
瞑想を始めた人びとはエネルギーが湧き上がってくるのを感じ、
そこで幸せを感じるようになると、
彼らはただちに私のところにやって来てこう言う。
「とても奇妙なことが起こっているんです。
 私は幸せを感じると共に、なんの理由もないのに、罪悪感も感じています」
罪悪感? 彼らもまた戸惑う。
なぜ罪悪感を感じなければならないのか?
なにも理由はないことは彼らも分かっている――
なにひとつ悪いことはしていない。
どこからこの罪悪感は起こってくるのか?
それは深く根ざした条件づけから起こってくる――
歓びは間違っている、という。
悲しくなるのはいいが、幸せになることは許されない。

私はかつてある町に住んでいた。
警察署長は私の友人だった。
私たちは大学の学生の頃からの友人どうしだった。
彼は私のところにやって来てはこう言った。
「僕はひどく惨めな思いをしているんだ。
 それから抜け出すのを手伝ってくれないか?」
私はこう言ったものだ。
「口では抜け出したいと言っているが、
 君はほんとうに抜け出したがっているようには見えないね。
 そもそもなんでここの警察署で働くことに決めたんだい?
 君はひどく惨めそうだし、しかも他人まで惨めにしたがっているようだね」
 
あるとき私は3人の弟子たちに、
町中を歩き回って町のあちこちでダンスを踊って楽しそうにしなさい、と言った。
彼らは言った、
「なんのためにですか?」
私は言った、
「とにかく行ってやってみなさい」
もちろん、一時間もしないうちに、彼らは警察に捕まった。
私は警察署長に電話をかけてこう言った。
「なぜ私の弟子たちを捕まえたんだい?」
彼は言った、
「頭がおかしいと思ったんだよ」
私は彼にたずねた。
「彼らはなにか間違ったことをしでかしたのかい?
 誰かを傷つけたとか?」
彼は言った、
「いいや、なにもしていないさ。
 彼らはなにひとつ間違ったことはしていないよ」
「じゃあ、なぜ彼らを捕まえたんだい?」
彼は言った、
「でも、彼らは路上でダンスを踊っていたんだよ! それに笑っていた」

「しかし、誰にもなにひとつ悪いことをしていないのなら、
 なぜ彼らのじゃまをしなければならないんだい? 
 なぜそこで君が割って入るのか?
 彼らは誰かを襲ったわけではないし、誰かの私有地に入り込んだわけでもない。
 ただ踊っていただけだ。
 罪もない連中だ。
 ただ笑っていただけなんだから」
彼は言った、
「君の言うとおりだが、それは危険なことだ」
「なぜそれが危険なことなんだい?
 幸せにしていることが危険なのかい?
 エクスタティックにしていることが危険だとでも?」
彼は私が言おうとしていることを理解して、ただちに彼らを釈放した。
彼は私のいるところに駆けてきて、こう言った。
「君の言うことが正しいのかもしれない。
 僕は自分が幸せになることを許せないんだ――
 だからほかの誰かが幸せになることも許せない」

これがあなたがたの政治家であり、これがあなたがたの警察署長であり、
これがあなたがたの知事だ。
あなたがたの裁判官、あなたがたの指導者、あなたがたのいわゆる聖者、
あなたがたの僧侶、あなたがたの法王――彼らはそういった人たちだ。
彼らはみな、あなたがたの惨めさに多大の投資をしている。
彼らはあなたがたの惨めさに依存している。
もしあなたが惨めなら、彼らは幸せだ。
 
惨めな人だけが寺院に祈りに行く。
幸せな人が寺院に行くだろうか?
なんのために? 
幸せな人は幸せのあまり至るところに神を感じる!
幸せとはそうしたものだ。
彼は天地万物とエクスタシーに満ちた愛のなかにあり、
見るところすべてに神を見いだす。
至るところが彼の寺院だ。
どこであれひれ伏せば、彼はただちにそこに神の御足を見いだす。
彼の畏敬、彼の崇敬は、
ヒンドゥー教寺院やキリスト教会に行かねばならないほど狭いものではない。
それは滑稽なことだ。
それは意味もないことだ。
神を見ることができない惨めな人びとだけが――
咲いている花のなかに神を見ることができない、
歌っている小鳥のなかに神を見ることができない、
美しい七色の虹のなかに神を見ることができない、
浮かび漂う雲のなかに神を見ることができない、
流れる川や大海原のなかに神を見ることができない、
子どものあどけない瞳のなかに神を見ることができない、
そういった惨めな人たちだけが教会へ行き、モスクへ行き、寺院へ行き、
僧侶のもとへ行き、
「神はどこにいるのですか? 私たちにお示しください」とたずねる。
 
惨めな人たちだけが宗教とかかわりを持つ。
だから
「いつの日か世界が幸せになったら、
 宗教というものは消え失せてしまうだろう」
と言ったバートランド・ラッセルはほとんど正しい。
私はほとんど正しい、99パーセント正しいと言いたい。
私が100パーセント正しいと言えないのは、
バートランド・ラッセルが気づいていない、
別のタイプの宗教を知っているからだ。
 
確かに、これらの宗教は消えてしまうだろう。
彼の言っていることは、これらの宗教については正しい。
ヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教、ジャイナ教、仏教、
これらのものは消え失せてしまうだろう。
消え失せてしまうことは確かだ。
世界が幸せになったら、それらのものは消え失せてしまわざるをえない。
なぜなら、誰がそんなものをかまうのか? 
だが、彼は99パーセントは正しいが、1パーセント間違っている。
 
その1パーセントこそ、残りの99パーセントよりももっと重要だ。
なぜなら、別のタイプの宗教、ほんとうの宗教、エクスタシーに満ちた宗教、
名前のない宗教、聖書やコーランやヴェーダといった法典や聖典を持たない宗教、
形容詞がつかない宗教、踊りの、愛の、崇敬の、祝福の宗教、純粋な宗教は、
人びとが幸せになった世界に生まれてくるからだ。

じつのところ、いま存在しているこれらの宗教は宗教ではない。
それらは鎮静剤、精神安定剤にすぎない。
もちろん「宗教は人民のアヘンだ」と言ったマルクスも、
99パーセントではあるが正しい。
彼の言葉は正しい。
これらの宗教はあなたが惨めさを耐え忍ぶのを助けてくれる。
彼らはあなたを助け、あなたを慰め、
「今日は惨めかもしれないが、明日には幸せになる」という希望を与えてくれる。
 
だが、そのような明日はけっしてやって来ない。
彼らは言う、
「この生では惨めかもしれないが、次の生には……。
 善良であれば、道徳的であれば、社会の規則に従い、奴隷になり、
 服従していれば、次の生には幸せになるだろう」。
だが、誰も次の生のことなど知らない。
そこから戻ってきてなにかを教えてくれた者などひとりもいない。
あるいは来世というものを信じない人たちなら、
「彼岸に、天国に行ったときに、あなたは報われるでしょう」と言う。
だが、そのためには聖職者や政治家に服従しなければならない。
 
聖職者と政治家は共謀しあっている。
彼らは同じコインの裏表だ。
彼らは互いに助け合っている。
彼らはみなあなたがたが惨めでいることを望んでいる――
そうすれば聖職者は会衆を維持することができるし、
あなたがたを搾取することができる。
政治家はあなたがたが国家の名のもとに、祖国の名のもとに、
あれこれの名のもとに戦争に行くよう強いることができる――
そんなものは大義名分にすぎないが、
政治家はあなたを戦場に送り込むことができる。
惨めな人たちでなかったら戦争に招集することはできない。
深く惨めな人たちでなければ戦うことはできない。
そうでなければ殺し殺されることはありえない。
彼らは生きているより死んだほうがましだと思えるほど
惨めな境遇に置かれている……。
 
惨めなときには、死ぬよりほかに自由はないと思えるものだ。
それに惨めな人間は他人を殺すことができるほどの激しい怒りに満ちている――
たとえ自分が殺されるかもしれない危険を冒さねばならないとしても。
政治家は、あなたがたが惨めであるがゆえに存在している。
だからベトナムが、バングラデシュが、アラブ諸国がつづくことができる。
戦争はつづく。
いつもどこかで戦争がつづいている。
 
こういった、自分が置かれた状況を理解しなければならない――
なぜそれが存在するのか、それからどのように抜け出したらよいのかを。
それから抜け出さないかぎり、その仕組み、条件づけのすべて――
自分が生きているこの催眠術――を理解しないかぎり、
それを捕まえて、観察し、落とさないかぎり、
あなたはけっしてエクスタシーに満ちるようにはなれないし、
生まれたときから持っていた歌をうたわないで終わってしまうだろう。
それを実現しないかぎり、
あなたは自分のダンスを踊らないで終わってしまうだろう。
それを実現しないかぎり、
あなたは一度も生きないままで終わってしまうだろう。
あなたの人生はただの希望にすぎない。
それは現実のものになってはいない。
それは現実のものになり得る。
 
この社会、文明、文化、教育と呼ばれる神経症、
この神経症には微妙な構造がある。
それにはこのような構造がある――
それは現実がだんだんといつしか曇ってしまい、見えなくなり、
現実ではないものにしがみつかざるをえなくなるような、
象徴的な考えをあなたに与える。
たとえば、社会はあなたに野心的になるようにと教え、
あなたが野心的になるのを助ける。
野心とは希望のなかに生きること、明日を夢見て生きることだ。
野心とは、明日のために今日を犠牲にしなければならないということだ。
 
今日しか存在していない。
あなたは今に、「今」という時間のなかにあることしかできない。
生きたかったら、この今を生きるしかない。
 
社会はあなたを野心的にする。
幼い子どもの頃から、学校に行くと、
野心をたたき込まれて、あなたは汚されてしまう。
金持ちになれ、権力を持て、有力者になれ、と。
あなたはすでに幸せになる能力を持っている、と教えてくれる者は誰もいない。
誰もが口をそろえて言う――
あなたは一定の条件を満たして初めて幸せになることができる、
充分な金、大きな家、大きな車、
あれやこれやを持って初めてあなたは幸せになれる、と。
 
幸せは、そういったものとはいっさい関係ない。
幸せは達成するものではない。
それはあなたの本性だ。
動物たちは金などなくても幸せだ。
彼らはロックフェラーではない。
 
人間だけが不幸せなのは、彼が現実ではなく野心のなかに生きているからだ。
野心はトリックだ。
それはあなたの心をそらすためのトリックだ。
象徴的な生がほんとうの生の代わりに置き換えられてきた。

それを生活のなかに見てみるといい。
母親が、子どもが求めているだけ愛することができないのは、
彼女が頭のなかに引っかかっているからだ。
彼女の人生ではなにものもかなえられなかった。
彼女の愛情生活はじつに惨めなものだった。
彼女は花開くことができなかった。
彼女は野心をもって生きてきた。
彼女は夫を操ろうとし、彼を所有しようとした。
彼女は嫉妬深かった。
愛情豊かな女性ではなかった。
愛情豊かな女性ではなかったのに、
どうして急に子どもに愛情深くなれるだろう?
 
子どもは最初から愛情をもらうことができない……。
また、子どもはお金のほうが愛よりも大事なのだということを覚える。
愛がなくてもお金さえあれば心配することはない、というわけだ。
彼は人生のなかで欲深くなってゆく。
彼は狂ったように金を追い求める。
愛のことには目もくれない。
彼は言う。
「最初にこれを済ませなきゃ。
 まず銀行にたっぷりと預金をするんだ。
 目標金額に達しなければならない。
 そうして初めて、愛する余裕がでてくる」
 
しかし、愛に金はいらない。
あなたは今のままで愛することができる。
愛には金が必要だと考えて金を追い求めていたら、
いつの日かその金を得るかもしれないが、
あなたはそこで急に自分が空っぽなのを感じる。
なぜなら、すべての年月は金をため込むことに費やされてしまったからだ。
しかもたんに無駄に費やされただけではない!
あなたは愛のない年月を過ごしたのであり、
愛のない生き方を習いおぼえてしまった。
いくら金があっても、あなたは愛し方を知らない。
あなたは感情の言葉を、愛の言葉を、エクスタシーの、
そのまさに言葉を忘れてしまっている。
 
確かに、美しい女性を金で買うことはできるが、それは愛ではない。
世界でいちばん美しい女性を金で買うこともできるが、それは愛ではない。
彼女は愛ゆえにあなたのもとにやって来たのではない。
彼女は銀行預金ゆえにあなたのもとにやって来た。

金は象徴だ。
権力、政治権力は象徴だ。
世間の評判は象徴だ。
こういったものは現実ではない。
こういったものは人間の投影したものだ。
これらのものは客観的なものではなく、客観性を欠いている。
実際にはそこにないものだ。
惨めな心によって投影された夢にすぎない。
エクスタティックになりたかったら、
象徴的なものから抜け出さなければならない。

象徴的なものから自由になることは、社会から解き放たれることだ。
象徴的なものから自由になることが、サニヤシンになることだ。
象徴的なものから自由になるとき、
あなたは現実にあるものへの勇気ある一歩を踏み出す。
現実のものだけが現実に存在している。
象徴的なものは現実に存在してはいない。
 
エクスタシーとはなにか?
それは達成されるべきものか? 違う。
それは稼ぎ取らねばならないものか? 違う。
エクスタシーとは在ることであり、そして成ることは惨めだ。
なにかに成ろうとしたら、あなたは惨めになる。
成ることこそ惨めさの根本原因だ。
エクスタシーに満ちていたかったら、
それはまさに今に、今ここに、まさにこの瞬間に見いだされる。
私を見なさい。
まさにこの瞬間、誰も道をふさいではいないし、
あなたは幸せでいることができる。
幸せは誰の目にも明らかで、じつに易しいものだ。
それはあなたの本性だ。
あなたのなかにはすでにそれがある。
ただそれが花咲く、花開く機会を与えるだけでいい。
 
エクスタシーは頭のものではない、いいかな。
エクスタシーはハートのものだ。
エクスタシーは思考と共にあるのではない。
それは感情と共にある。あなたは感情を奪われてきた。
あなたは感情から切り離されてきた。あなたはなにが感情なのかを知らない。
 
たとえ「私はこう感じる」と言っても、自分は感じていると考えているだけだ。
たとえ「私は幸せを感じている」と言っても、観察し、分析したなら、
自分は幸せに感じていると考えているにすぎないことが分かるだろう。
感情ですら、思考のなかを経過しなければならない。
それは思考の検閲のなかを通ってゆかねばならない。
思考がそれを承認して初めて、それは許される。
思考がそれを承認しなかったら、それは無意識のなかに、
あなたの存在の地下室に投げ込まれて、忘れられてしまう。
 
もっとハートの人になって、あまり頭の人ではないようにしなさい。
頭は一部にすぎないが、ハートはあなたの全存在だ。
ハートはあなたの全体的な存在だ。
だから、いつであれなにかに全一になっているとき、
あなたは感情からかかわっている。
いつであれなにかに部分的にかかわっているとき、
あなたは頭からかかわっている。
 
いつであれなにかに全面的に入り込んでいるとき、
あなたはエクスタティックだ。
なにかに部分的に入り込んでいるとき、あなたは惨めでいるしかない。
なぜなら、部分が全体から分離して働いているからだ。
そこには区分けがあって、分裂が、緊張が、不安がある。
 
私はよく川に泳ぎにいったものだが、それはとても楽しかった。
いつも川から帰ってくると、隣人のひとりが私を見ていて、
私がとても歓びにあふれているのを観察していた。
ある日、彼はたずねた。
「どこに秘密があるんだい?
 君はいつも川に行って、何時間も泳ぎ、川のなかにいるね。
 私も行っていいかい?
 なぜって、君はとても幸せそうに見えるんだよ」
私は言った。
「来ないほうがいいですよ。
 あなたはそれを逃してしまうし、川はとても悲しい思いをするでしょう。
 だめです、来てはいけません。
 なぜなら、あなたのそのまさに動機が障害になるからです。
 たとえ泳いだとしても、
 あなたはいつその幸せが起こるのかと見守っているでしょう。
 それはけっして起こりません。
 なぜなら、それはあなたがいないときに初めて起こるからです」
 
泳ぐことは瞑想になり得るし、走ることは瞑想になり得る。
どんなことでも瞑想になり得る――もしあなたがいないなら。
 
エクスタシーはハートから来るものであり、全一さから来るものだ。

Osho: Ecstasy: The Forgotten Language ,#9

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