「江戸の仇を長崎で…」 まさか我が息子が北川譲治にハンテイングを受けるとは…

 

いや、北川への誘いをかけた時には彼は就職先が決まっていなかった。河野の息子は立派な会社に就職が決まっていたのだからそれは大違いだ。

 

止む無く、河野は翌月の役員会でN総研の社長に丁寧にお詫びしたのは言うまでもない。

 

ベンチャーIT企業「アタボック」その社長の名前が「BOW・KOBATA」、KOBATAをひっくり返しただけの何の工夫もない会社名が不思議ではあったが、それこそ社名に創業者コバタの自信の表れとも言えるだろう。彼は純粋の 日本人であるが、米国に永住権を持っていた。

 

現在の社名は「イーパーシャル」……電子宅配便…は端的に業務内容を示す会社と成っている。当時インターネット社会への入り口にさしかかった頃、まさにインターネット回線は道路で言えば2車線程度のデコボコした一般道路であった(ようだ)。

 

大きな荷物(データ)は中々通過が困難であり、または大変な時間ロスが発生する。ましてやその道路には誰でも簡単に侵入が可能であり、それが盗賊であってもちょっとした知能犯なら、自由に出入りが出来る様な無警察状態であった(らしい)。

 

アタボックの技術はこのインターネットの流通路を高速の専用道路にし、どんな重い荷物であっても瞬時にかつ完全な安全性で持って運び込む事が出来る世界最優の優れものアプリであるという事だ。

 

例えば重要な機密性が必要なデジタル設計書面、各国外務省の本国とのやり取り、海外新聞特派員の特ダネデータなど米国では既にアタボック通信ソフトが頻繁に使われているという。

 

社長のコバタは、慶応大を首席で卒業し、M電機に就職した超エリートだった。その後「あの」マサチユーセッツ工科大学に社員留学し、そこもほぼ首席で卒業したという事だ(事実確認はしていない…)その後の経緯も確認はしてはいないが、M電機において米国の防衛と宇宙技術開発に関わる中、その先端技術と世界的技術者達30名もの精鋭が彼の元で英知を結集して作り上げたインターネットセキュリティソフトの開発に成功し、そのまま米国で独立起業したのだとの触れ込みであった。

 

アタボックの技術には所謂世界特許を8つ以上取得しており、インターネットセキュリティーを「完全なもの」にする為にはこの技術を通過させる以外に方法は無いというのだ。

 

もちろん素人にはこの技術のすごさなど分かるはずもないのだが、彼が日本に連れて帰った2人の腹心はMIT時代の仲間であり、その一人久坊は東京大学工学部卒というバリバリのキャリアを有したN証券からの転職組だという。何よりも彼はコバタの能力と人柄に心酔しており、この会社のバリューやパフォーマンスを説明するに十分な人材でもあった。

 

さて、何故かこの米国で起業されたアタボック社が日本に上陸し、しかも最大の企業価値でもある世界特許までもが新設された日本法人に移行されていたのである。

 

又、既に米国企業としては日本の総代理店として天下の「TY通」に委託されてもいたにも関わらず…。

 

何らかの性急な日本上陸に至る背景があったのかも知れない。

 

日本法人の最大株主は当時売出しのVCでもあった「NP証券」、それにあの「T海上」社他10社程度が株主に名を連ねていた。

 

(米国アタボックはこの時点ではコバタが所有する別法人として残留していた事も合わせても考えれば誠に不思議ではあるのだが…この時点で、その辺の理由は不明で有ったのは日本の投資家各社にとって大きなミスジャッジがあったかもしれない。日本上陸と共にTY通商との総代理店契約は既に解消されていた)

 

アタボック社の事務所はもちろん六本木の一等地に構えられた申し分ないものであった。十分な広い事務所スペースに20名程度の超エリート社員が勤務していたという。

 

社長のコバタは帝国ホテルのVIPルームを日本滞在時の常宿にしていた。社員は全て超一流大学卒のみ、唯一愚息竜也が早稲田の「人科」と段落ち学歴の新入社員で入社したのだった。

 

北川譲治は経営企画室長であったが、むしろ前職で培った得意の営業力も加味した総合力を発揮して順調に業務遂行が出来ていた様に見えた。

 

中途採用で東大、工学部卒の窪田が採用されていた。その後のキーマンになる人物である。彼もやはりアタボックの技術力に心底惚れていた事は河野が後日何度も直接確認している。

 

コバタの経営方針は直言のひらめき伝授とスパルタ教育だったと河野の次男「竜也」は述懐する。真夜中の帝国ホテル幹部会議が再三行われるのを不思議な光景として横目では気にしていた。

 

3年程度で竜也は退職する事になるが「日々する事もなく、ひたすら日経新聞と日経産業新聞を隅から隅まで読まされていたと後で河野は聞かされていた。

 

「おかげでその頃上場株については店頭銘柄まで頭の中で認識できるようになったけど…」と皮肉混じりに感謝する一方で、やはり様々な怪しさ、異常性に気付き退社を決意したのだった。竜也が(河野には勿論何の相談も無く)退職した後、アタボックに関しての様々な事情を聞く事になったが、何故北川譲治がこの会社にハンテイングされ、その後も残って頑張るのか、河野は最後まで理解できなかった。