二人目の息子が出来た時「家族帝国主義」の意味を悟る事になる。

家族の縛りを断ち切って自由になれるか?羽仁五郎の「都市の論理」が問う事と学園(闘)紛争で問われた覚悟からの開放感は同一の課題であった。

 

ここからのサラリーマン時代の真実を書くにはあと10年程度の時間が必要になる。しかしこの間の決意が果たして成功といえるものであったかどうかは検証して見なければならない。

 

「どうせサラリーマンに戻るなら、今度は徹底的にサラリーマンになり切ろう。サラリーマンのプロ選手をめざして…」

大学の同窓でプロ野球選手になった阪神の「谷村」が賞味期限切れになる頃だった。その才能の裏にある猛烈過酷な練習…プロとして生きる為には本番前の「素振りの数」が勝負なのだ。スタートの遅れにはとにかく「仕事に追いつけ追い越せ、ましてや給料に見合うよう追いつけ追い越せ」をスローガンとする。

 

偶然も手伝って給料はほぼ倍増の新生活が始まった。28歳の新入社員など職場で歓迎されるはずも無い。ひたすら素振りを繰り返すしか能が無い。ましてや特種知識は一カ月程度の研修では追いつくはずも無い。

先ずは不足する課題整理と実践的素振りに追われる日々が続いた。誰よりも早く出社して一番最後に帰る。そして無駄なく時間を消化する為には前日就寝前の思考回路で決まるのだ。

 

最も忌み嫌うはずの企業戦士の姿がそこにはあった。テレビコマーシャルでは「24時間働けますか」が流れ、団塊世代が押し並べて日本の高度成長を担う企業戦士に変わっていく頃でもあった。

 

30年、、、3人になった子供達はいつの間にか成長し、無事大学を出て其々の仕事を得ていた。彼らと遊んだ記憶すらもぼやけ、思えば家族旅行など数える程もありはしない。

子育てを母親への完全分業と心得え、ひたすら「給与」に追いつこうともがき続けた30年でもあった。

それでも遂に仕事に追いつく事はなかったのは、やればやるほど仕事量を増やすのが損保営業の宿命でもあったのだ

物を作って、売り切ってお終いの仕事なら追いつく事はできても、販売網を作る仕事には売切れも在庫切れもない。走れば走るほど距離が伸びていく果てし無いマラソン…ひたすら振り返らず、又ひたすら走るのみ…で30年が過ぎ去った。

 

振り返ればその原動力の大半が、それ以前に体験し学んだ17歳からの10年間に凝縮されていた事を実感する。成長の苦難、ピンチの連続であった青春時代が、一見順調に進むプロサラリーマン時代を支えていたのだろう。

人としての成長は如何程のものであったのか…

ふと、振り返るとその犠牲になりえた人としての自己欲求を抑圧しつつ、人の上に君臨するような立場の自分がそこにあったのであろうか?

還暦まで残す所は後3年ープロサラリーマンの賞味期限はすでに切れていたのだ。

 

気付けば、又しても手元に辞表があった。一体何度目であろう。そして必ず実行してしまう自分があり、そこには打算、計算などの余裕も無かった。

いつもの様に衝動的な我儘でしか無かったが、不思議な事に家族(4人)は何故か一人も反対しなかった。しても聞かない「我儘度」を見抜かれていたのだろう。