昔から思い出は美化されると言われている。二〇二〇年には、第三十二回夏季オリンピック競技大会(2020/東京)とパラオリンピック大会が開催される。東京で開催された第十八回オリンピック競技大会は、まさに秋日和の十月十日であった。半数近くの日本人は思い出すことが出来、毎年十月十日各地で運動会のイベントが催された。

 

 

 

オリンピック開会一羽の鳩を秋芝に      長谷川かな女

 

 

 

今年二〇二十年三月より国内聖火 リレーが復興五輪という位置づけから、スタート地点となるのは福島県Jヴィレッジ(楢葉町、広野町)でここから日本各地を巡ることになっている。

 

 

 

竹の秋復興の首太き人ら     金子兜太

 

 

 

あの二〇一一年の忌まわしい三月十一日から足掛け十年を迎えようとしている。

 

春の訪れと言えば、北海道の沿岸で見られる流氷が思い浮かぶ。流氷がオホーツク海の接岸するのは大体二月上旬である。

 

 

 

流氷や宗谷の門波荒れやまず  山口誓子       

 

 

 

「門波」は海峡に立つ波のことである。海峡の波はどこまでも荒れていてオホーツク海から流氷が流れ込み連絡船は、その流氷をかき分けて進む。この句は、小中学校時代樺太に住んだことのある山口誓子(一九〇一年~一九九四年)が詠んだ。身近なところで春の訪れとして、各地のお寺で行われる涅槃会(釈迦入滅の日)の法要があげられる。行われるのは、太陽暦の二月一五日か月遅れの三月十五日のところが多い。

 

 

 

西行の慾のはじめやねはん像  与謝蕪村

 

 

 

この句は西行が「涅槃の日に死にたい」と願っていたことを熟知していた与謝蕪村(一七一六年~一七八四年)が「西行の慾のはじめ」と詠んだところが味噌である。修二会もこの時期各寺院で行われる。

 

 

 

修二会僧女人のわれの前通る  橋本多佳子             

 

 

 

私は修二会については俳句を始めて知るが,旧年の穢れを祓う懺悔の行と神や祖霊の力で豊年を招き災いを遠ざけようとする新年の平安・豊穣祈念を行う。奈良の東大寺は大仏と言われている。東大寺二月堂は特に注目されないが、二月堂で有名な「お水取り」が行われTVや新聞のニュースとなる。この句を詠んだのは奈良に住んでいた橋本多佳子(一八九九年~一九六三年)だ。    

 

 

 

水取の十一人の僧のうち  高野素十              

 

 

 

行中の三月十二日深夜(午前一時半頃)には、「お水取り」といって、若狭井という井戸から観音さまにお供えする「お香水」を汲み上げる儀式が行われる。伝説では、この日にしかお水が湧いてこないと伝えがある。お水取りには十一人のお坊さんが出仕し、この十一人のお坊さまを「練行衆」という。「練行衆」の道明かりとして、夜毎、大きな松明(たいまつ)に火がともされる。このため「修二会」は「お水取り」・「お松明」とも呼ばれるようになった。この句は、高野素十一(一八九三年~一九七六年)が詠んだ。

 

 

 

蓼科の春雪霏々と馬の仔に  木村蕪城            

 

 

 

蓼科は古代から馬の産地である。「霏々」の意味は雪や雨が降りしきるさまのことを言うが季語は「馬の仔」で春。春は、仔馬の生まれる時期だ。馬は前年の春の発情期に受胎し、約一 年間の妊娠期間を得て出産する。生まれたばかりの仔馬は、間もなく立ち上がる。立ち上がろうとして、何度もよろけながら、それでも脚を懸命に踏ん張ってひょろりと立つ。生まれてもなかなか立ち上がることが出来ない人間にとっては、ひどく感動的であり思わず頑張れと言いたくなる。この句は、虚子門に学んだ木村蕪城(一九一三年~二〇〇四年)である。

 

 

 

山茱萸にけぶるや雨も黄となんぬ 水原秋櫻子

 

 

 

この句を詠んだのは医師であった水原秋櫻子(一八九二年~一九八一年)だ。山茱萸は薬用植物でもあるが、観賞用として庭木などにも利用されている。日当たりの良い肥沃地などに生育する。高さは三~十五mにもなる落葉小高木で、樹皮は薄茶色で、花弁が四枚ある鮮黄色の小花を木一面に集めてつける。花弁は四個で反り返っている。「雨も黄となんぬ」と山茱萸の花を詠んだ。

 

 

 

蕊の金袖に一刷き牡丹散る  石原 八束

 

 

 

春ともなれば牡丹はもとよりパンジーやチューリップなど春の花が咲き乱れる。その花の中心にある蕊は黄色だが詠んだ「蕊の金」と見立てた。誰だって金色のメダルが欲しい。国民的ヒーロー、ヒロインになれる世紀の戦だ。金メダルを目標にオリンピック選手になる。参加するだけで意義あるが、勝利者になれるのはたった一人だ。過酷な戦いの末一人を除いて、すべての人は敗者となる。ある意味では残酷なゲームだ。この句詠んだのは石原 八束(一九一九年~一九九八年)。本名は「登」であったが、病弱であったため生後一ヶ月で長命を願い「八束」に改名した。生命のはかなさは身をもって認識している。弱者にやさしい声をかけてくれるのは花だ。そして黄色の蕊。それを見るだけで人の心は健やかになれる。

 

 

 

ノスタルジーにひとりで浸る朧月夜 金子未完