それは東京オリムピックの年だった。

 

1966年、高校2年生が修学旅行の年でもあった。しかしテレビの普及にも関わらずその記憶はほぼ無い。一つだけ九州の駅頭でちらりみた東洋の魔女達の優勝シーンだけが残っているのみだ。

 

 

 

修学旅行は専用列車ですでに帰途についていた。理由は今もってわからないが、同級生と血まみれになっていた自分がその列車のデッキにいた。確かにデッキで手を先に出したのは自分であった。その手が滑って列車の窓ガラスを割ってしまったのだろうか?55年経った今もその傷跡は右手に残ったままである。

 

 

 

不思議にその後の記憶はほぼ無い。

 

多分宮崎だったと思う。病院の手術室で先生が「そうか、神戸なら阪神ファンなの?」と妙な慰めを言われた事しか残っていない。手術を受けたあと別列車で帰神となったのだろう。神戸駅で修学旅行専用列車に追いついていたのは何故だろうか?

 

神戸駅には兄と母親が迎えに出ていたのも不思議であったが、その時の記憶もそこまででしか無い。そのまま友人達とは別々に、帰宅したのだろう。

 

 

 

自宅謹慎でその厳罰措置を待つしか無かった。

 

おそらく2週間後には学校に出れる事になったのは、考えれば奇跡のような出来事であったかも知れない。静かに退学も覚悟し、謹慎中は寝転んで不貞腐れつつ「本」を読みふけっていた。その本の中に小田実の「なんでも見てやろう」という世界放浪記があった。処分の結果を待つ事なく「退学してアメリカへ行ってやろう」と決意したのだった。

 

 

 

親達も事件の件を何も話をしないし、叱りさえしなかった。

 

止む無くボソボソと母親に「俺アメリカに行きたい」とだけ行って見た。親父も側にいたのだろう。初めて「馬鹿を言うな、うちにそんな金があるわけ無いだろう。自分で働いて金を貯めてから吐かせ」…

 

考えれば、それまでも父母から叱られた覚えは全く無い。4男坊の自分には全く自由放任主義であったのか、、そのような余裕の無い家庭であったのか?それ以前も以後も不思議なくらいにすべての判断は自己判断(せざるを得ない環境)であったように思う。

 

 

 

金無しで家を出る勇気はなかった…と共に自己を振り返る日々に変わった。

 

物心ついて以降、ただひたすら「野球部」に打ち込み、そしてその能力の限界を悟り退部した後のただ悶々とした思春期真っ只中で迎えた修学旅行であった。進路を決める時期でも有ったが、今更大学に受かる自信ももちろん無かった。全く自宅で勉強をした記憶もなければ、その頃でも机さえ無いし、その必要性さえ感じなかったのだから…

 

 

 

処分は2週間の「停学」であったと思っているが、示逹もなかったように思う。

 

ただし、級友の誰もその事件については語らないのは何か理由があったのであろうか?この事件は勿論その後の自らの人生にトラウマとして残ったままである。「自分の愚かさが、人に大きな迷惑をかける」と言う反省は…「皆んなの楽しい修学旅行を台無しにしてしまった」という後悔でも有った。

 

 

 

しかし、最近になって気付いた事がある。

 

あの事件は学校内でも完全に伏されていたのかも知れない。ある面でそれは知れ渡っているはずの大事件の当事者として「有名人」であるとの錯覚が有ったかも知れないと思ったのは、卒業35年目の同窓会で有った。勿論卒業後、初めて出た同窓会…やっとその時の事に触れられる長い時間経過があった。その事はごく親しい級友ですら「記憶」には無いというのだから驚くしかない。

 

その時、ふと感じたのだ。あれは列車のデッキでの瞬間の出来事であり、そのままどこかの駅で降ろされたのだ。何もなかった筈はない。傷は右手にも心の中にもずっと残っている。その列車は停車中の出来事だったのかも知れないし、小さな隠された空間であったのかも知れない。

 

そして今、ずっと分からなかったその事件に至った原因もやっと辻褄があうのかも知れない「理由」も発見出来たようにに思っているのだ。55年を経て2020の東京オリムピックを前にして…

 

 

 

沢山の謎が有った。

 

一切の確認もせず、その事を人に語ったこともない。事実は2週間の停学が有ったのかさえ不透明であり、あの事件は事件では無かったのかも知れない。いや全てを無いものとしてくれた誰かがいてくれたのだ。

 

その頃の(2年生時の)担任で有った芝崎先生が先頃亡くなられたと聞いた。人生で唯一お世話になった先生である。

 

(心からご冥福をお祈りします)

 

全てを呑み込み、事後措置をしてくれたのでは無かったか?処分さえ無かったのかも知れないが、もはや確認すべは無くなってしまった。

 

 

 

停学明けの出校日に先生にはこう言われた

 

「河田君、勉強すれば今からでも遅くないから志望大学に向けて準備をしなさい」

 

この時も説教さえされなかったが、先生には心の中を見透かされていたのかも知れない。

 

 

 

志望校があったが、その頃の実力では逆立ちしても無理であった。実は先生も志望校は聞かなかった。それが「関西学院大」である事は先生すら予想しておられなかったに違いない。しかし、そこ以外であれば大学には行かないというつもりとそういう「時代」でもあった。

 

 

 

全ての時間を関学受験に費やす事になった。考えれば生まれて初めての自主的勉強で有った。芝崎先生は化学の教師であったが、その時間を含めて受験に関係のない時間は「数1」に費やし、家ではラジオ講座の数学にかじりついた。

 

 

 

恥ずかしながら後にも先にもそこから1年のみが勉強(と言うよりも受験)という勉強は今日まで記憶にない。運を天に任せた受験は成功してしまう。間違いなく、事件無くして進学はなかったし、人生は全く変わったものになっていたであろう。

 

 

 

その高校を2年で断念した友人がいる。いわゆる落第がその理由である。その落第を決定したであろう教師が我が3年次の担任となった。彼は僕が野球部を辞めた後も彼は野球部に没頭した。結果としての落第で有ったと思うし、能力としては僕の比ではなく優秀な生徒であったのは明らかで有った。彼はその後大変な苦労をして夜間高校に転向後無事高校は卒業し、不動産会社に就職するのだが、ここで培った彼の営業力は半端では無かった。

 

「河田よ、俺は多分空気をも売ることができるくらいまで来てるよ」

 

僕はその後大学を出て1年後に彼の営業力を身をもって教えてもらう時期があった。

 

 

 

彼は残念ながら15年も前に早逝してしまったのだが、彼を落第認定した我が担任は、受験に際し、「お前がもし関学に通れば俺は逆立ちして歩いてやるよ」と励まして?くれた。

 

入学の知らせに職員室に入った僕はその担任を通り越して芝崎先生のデスクの前で深々とお礼を言ったのは当然だが、ひょっとしてあの憎っくき教師も「悪役」を自ら買って自分を励ましてくれたのかも知れない。その先生も今は鬼籍に入られている(合掌)。

 

 

 

その親友の名は「荒木庸雄」君、いずれ彼との思い出も書いておこうと思う。

 

 

 

(この一文は、遂にお礼を述べることも無く、東京へ出たままお目にかかれないままの芝崎先生へのお礼と追悼の意味で描かせてもらいました)