『輪舞曲』(ロンド)は、大正期の女優伊澤蘭奢の生涯を異性交友の面に焦点をあてて、描かれている。

朝井まかてさんの文章はとても馨り高く、女優伊澤蘭奢が生きてきた道のりに照明をあてて、その人物像が浮き彫りになるような描き方をしているように感じられた。

伊澤蘭奢は在京中に松井須磨子の舞台「人形の家」を観覧し、自らの封建的な結婚生活に疑問符を抱くようになる。そして、息子の佐喜雄を残し、夫の津和野の「家」を出奔し、東京へ舞い戻って女優を志した。

遅咲きの彼女の女優人生は順風満帆ではなかったが、内藤民治の中外社で雑誌の記者となって、内藤民治のもとで、教養を深め、各界との繋がりを持ち、ライバルと競り合う間に女優としての評価を上げていった。


夭逝した彼女の死については、様々な憶測を呼んだが、『輪舞曲』の中で次のような一文がある。


「蘭奢は自殺したのではない。彼女は女優なのだ。いかほど行き詰まろうとも、明日の舞台ではほんの一寸でも今日を超えられるかもしれない。だから舞台に立ちたかったはずだ。願いはそれだけだった。今はそう思っている。」


この文章から、まだ封建的な大正期に時代に抗いながらも、自分自身の心の指針を大切にし、人生を拓いていった蘭奢の姿を見つけられたように感じる。舞台という土壌に根を張り、開花した人生は、違う角度から見れば、閃光のような女優であったことを物語っているのではないだろうか。

「マダムX」という彼女の当たり役がある。この舞台の内容は蘭奢の波乱に満ちた生涯と重なるところが多い。その時の彼女の演技は、もはや演技を超えて嘘のなかにも真実味を帯び、彼女が放った煌きがその姿を見つめた人々の心に刻印となって残ったように私には感じられた。


今でも語り継がれる女優伊澤蘭奢は、従順な道を辿るのではなく、湾曲した道を進んだかもしれない。しかし、いつだって、自分自身の心にまっすぐ、苦しみながらも自分の心のありように嘘をつかないように舞台のなかで演じ続けていたのではないかと考える。


そういう辛辣な道を拓いた女優がいて、その女優が多様な垣根を超えて「人間」の心情に訴え、新しい時代の道標になってきたことを私は忘れないようにしたい。