6月25日からサイババアシュラムのある町プッタパルティに3ヶ月の予定で息子2(1歳5ヶ月)と2人で滞在中です。(借りっぱなしにしてるアパートに滞在してます)
おとといだったか、アシュラムのショッピングセンターに買い物に行って、帰りに息子2にパック入りのりんごジュースを買って、飲ませながら歩いて(息子2はベビーカーに乗せて)帰ってきてたんですね。
息子2はこのりんごジュースは気に入ってるみたいでゴクゴク飲むんですが、パック入りのジュースを持たせるといつも、飲み飽きてきたらストローを抜いて遊び出します。
この日も見てたらパックからストローを抜いて、ストローが刺さってた穴から直接ジュースを飲もうとして、ダラダラこぼしていました。
もう!遊ぶなや!
と、そうなると私はもうさっさと取り上げちゃったりすることも多いのですが、
(ぎゃーっと泣きます)
この日はちょっとわたしの気分が違ってて、
何回かはストローを挿し直してもすぐに抜き取られてしまってらちがあかなかったのですが、ふと、
何回めかにストローをパックに挿し直してやりながら、
「えらいね〜、ストローでちゃんと飲めるんやね〜、すごいね〜〜〜!」
と、飲めてないんだけど先取りしておだててみました。
そしたら、息子2はストローをパックから抜き取るのをやめて、頑張っておとなしく飲み始めました。
その反応の良さに、うわっ理解してる・・・そして褒められたら頑張ってる、この1歳児・・・と、多少ビビりながら様子を見てました。
見ててさらにハッとしました。
ストローが、咥えられてない・・・。
褒められて、頑張ってストローで飲もうとしてるのですが、ストローの端がうまく咥えられなくて、途中のところにしか口が行かなくて、つまり全く飲めてないんですが、
そのまま頑張って吸おうとしていました。
うわ、これ、気がついてなかったら気の毒なことになるとこだった、と思いました。
褒められてやる気を出して頑張ってても報われてない息子2。
言葉かけの絶大な効果にビビるのと、その結果小さい子に無理させてることに気がついてないかもしれない可能性が恐いと思いました。
苦労して咥えようとしてできていないストローを息子2の口のところに持って行ってやると、もう抜き取らず、そのままおとなしく飲みきっていました。
そもそもストローを抜いたのも、遊んでいたのではなくて、もしかしたらうまく飲めなくて、でも飲みたかったから、穴から直接飲もうとしてたのかも?
一連の息子2の様子に、状況に気がつけてよかった・・・と思うと同時に、恐いなあと思いました。
子供の相手をするときの怖さだと思います。
良かれと思ってても、知らず知らずのうちに行っている大人の無神経さと、素直に言うことを聞いてしまう小さい子。
恐いなあと今も思います。
いろんなことに気がついていられるように、自分の考えでいろんなものが見えなくならないように、子供が何を受けてどう形作られて行っているのか、何がそこで起こっているのか、それらがほとんどの場合、意識化されずに無自覚にすすんでいくだけに、親や保護者業って、こわい。
そう思いました。
どんな親も、自分にできる最善のことを子供に提供したいと思うものではないでしょうか。
すごく頑張って、でもできなくて絶望して。
しょうがないんだけど。だっていつもベストを(実際にはベスト以上を)尽くしてそれなんだから。
できるだけのことはやってるんだから、しょうがない、とは思いながらもこういうことがあるとヒヤリと恐ろしい気持ちになります。
何かすごく自分が粗野で無神経で、一方的な人間な気もちになります。
じっさい子供って、すごく繊細で、すべての言動には理由があると思います。
たとえそれが無意味で理不尽な、むちゃくちゃな言動に見えても。
そしてやはりどの子も素直でいろんな働きかけを真面目にまともに受け取ります。
そこに、ガード機能が、働かないんですよね。
それだ、恐いのは。
息子1(いま14歳)のときは、わたしにあまりにも余裕がなくて、心身ともにギリギリアウトなくらいの状況で関わっていて、いつも少し胸が痛かったです。
せっかく素直で素敵な子供なのに、十分な扱いをしてやれないという気持ちがいつもありました。
それでも、わたしはものすごい頑張って、今思うと頑張りすぎで自分が気の毒なんですけど、私がいつも限界だったので、息子1の負担も大きかっただろうし、不安なことも多かったと思います。
私としてはそれでも、本当に限界状態でやってたので、これ以上できない、やりきった感はありますが、そんな、負担の大きかっただろうと思われる息子1なので、離れて暮らしてる今もいつも、大丈夫かなあと心配な気持ちがあります。
赤ちゃんのときから素敵な赤ちゃんでしたが、大きくなって中学生になっても素敵な男の子になっています。
でも、もっともっとたくさんのエネルギーを注がれてほしかったなと思うのです。
当時のだんなさんはその点使い物にならない状況だったし、私一人ではとにかく限界でした。
だから自分では足りない分を補えるように他人の力やコミュニティの力を借りようと思って、
沖縄の離島に移住しようとしたり、インドの聖地(サイババアシュラムのある町)に移住して住んだのです。
できるだけのことはした。
でも負担をかけたのはわかってるので申し訳ないという気持ちはいつもあって。
今はまだ彼は中学生なので、まだ私が関われる余地があるような気がどこかでしてるので、そんなことを思うのかもしれません。
彼が成人して完全に自分の足で人生を歩むようになったら、案外私は全く気にせず、綺麗さっぱり今のような気持ちは無くなるかもしれない。
彼にまだ関われるような気持ちでいて、申し訳ないとか思える、そんな今の状態も、ある意味甘美な幻想なのかもしれません。
世界にはどれだけの負担や歪みがあるのかわかりませんけど、それらの痛みもすべて、起きて見る夢という意味で、甘美なものであるのかもしれません。
他者がいる、そしてそこに関係性がある、という幻想ほど絶望的に甘美なものはないと思うのです。
そういうのを味わうために私たちは多であるという幻想に酔うことにしたのだと思います。
だからそれらを何一つ無駄にせずに、味わい尽くしたい。
今日、息子2に、小さい子でも扱えるように、大きなパーツのおもちゃを買いました。
同じようなものを息子1も小さい頃遊んでいました。
その時の写真が残っていました。
頑張って大作を作っていたので、
「すごいやん!」「よくできてるから写真に撮って残しておこう」と息子2に言って、写真を撮ったのです。
本当にすごいと思ったからそうしたのですが、
息子2は誇らしげで嬉しそうでした。
「やったー!」と、自分で自分に拍手していました。
子供の素直さと純粋さって、わたしはほんと怖いんです。
ものすごい歓びの中に居れることもできるし、ものすごい恐怖と絶望の中にズタズタの気持ちでいることもできる。
そのどちらにも瞬時に自分を落とし込むことができる単純さと純粋さ。
その振り幅が恐ろしいです。
だから子供の喜ぶ、光輝く笑顔は逆方向への振り幅やポテンシャルを示唆しているようで、ぞっとします。
子供って、そういう、悲惨で残酷で、そういうネガティブな要素にぴったり裏打ちされた、輝く生き物だと思います。
大人は、どうなんだろう?
年齢では、ないのかも。
昔沖縄の売春宿で接した、年老いた売春婦の魂の底から輝く、曇りない笑顔を今、思い出しました。
やはりそれも、生身の人の笑顔とは思えないようで、光の粒子しかそこに見ることができませんでした。
その笑顔は私には恐ろしかった。
あるいはそれは、すでに人ではなくなっているものに触れた畏怖、と、いうのだろうか。
子供のそれも、まだ人ではないものに対する畏怖、なのかもしれない。
他者のない、絶対的な世界。
宇宙そのもののような、区切りのない広大さに。
そこにしたり顔で土足で入るような無神経を自分が行うかもしれないこともまた、怖い。