書くというのはこころの解毒を進める作業という面もあるのでしょうかねぇ〜 書きたい、書こうと思えるときには、まだ、生きてると思えるだけのなにかを求めようとこころが思えてる時なのだろうから…。
手紙は書きたいと思ったときに、書かないとほんとうに伝えたいことは伝わらないというのは、ほんとうだなぁ〜と、改めて思います。これを伝えたいと思えるひとが、思い浮かばないときは、少なくとも書こうなんてとても思いもしないだろうから…。
PineHillだったときのことが、時々とても懐かしく感慨します。なにかを想えるというのは、ほんとに、少なくとも本人にとっては、もっとも生きてる実感を覚えられることなのでしょうね。しあわせということばを、借りるならきっと、そのときこそがそれなのでしょうね。そんなのはただの熱病だという人もあるかもしれませんが、どんなことや、ものであれ、がんばろう、さらに先を目指そうと思えるのも、最初にあるのは、何かの、何かへの熱意なのでしょうから…。
なにがしたい?、どうなりたい?、どうしたい?そう聞かれても、ことばも気持ちもすぐに動こうとしないときは、これをなんというのでしょうね。あきらめとか諦念とも違うように感じます。むなしくないといえば、嘘になるでしょね。しかし。不満があるわけでもない。なにかをこわいというのとも違うようでもあるし。さびしいというのが、いちばん近いのですかね。
いいたいこと、なにか打てば響くようなことばを交わせる人、そんなこんなが通じる相手が、〜まぁそうそう生涯に何度も出会えるものでもないのでしょうけど、ともあれ〜、見回しても、どーにもいない、というのが、やはり、さびしいのでしょうね。
いつかも、書いたように、ゴルフをする人はあまたあれど…、の、あの続きのように。どうして、敢えて難しい攻め方に挑戦して、清々しくダボを叩ける人、あるいは、めちゃくちゃ精一杯の打ち方に徹してどうあがいてもダボしかとれなくても、嘆かず凹まず俯かずにダボを打つ人、いや別にトリでも、谷越えのティーショットを叶うまで5回打つ!のでも、もちろんいいのだけれど。どーして、どこ見回してもそんな人見当たらないのでしょうね。スケールなんて言葉を使うと、またひどく叱られてしまいそうですけれど。
お金とか数字とか、世間体とか、そんなこんなに負けないゴルフできる人、そんなひとは、そもそもゴルフをしないのですかね〜 いや〜しない人は初めから舞台に立つ覚悟がもてないだけのような気もするし、しないことで大叩きという恥をかかないで済む思ってるとしたら、やっぱり違うのだろうし。やっぱりそれも数字にはなからひれ伏してるわけですよね。おっと、また、大きなお叱りを受けそな言い方になってしまいました。
格があるというのを教わってから、それを教えてくれた方に匹敵するようなひとにも、出会えたことはないですねぇ。認知症になって、まるで仏さまみたいな、言動をさせるようになられた、かつてのバリバリシングルの方の素直すぎる言葉には、こちらがこころ洗われて、ほかの誰と話す時より素直に笑顔になってしまうのですけれど。そして、いくつ打っても嘆くこともなく、わしこれなんだめや?と訊きながらも、ボールの前に立つと、ほかの誰よりも綺麗なボールを放つその方を見てると、むしろ、こっちの方が美しい老い方なのかしらと、思えてしまったり…。
ことばが通じるって、ほんとに偉大なことなのですねぇ。改めて思います。遠く離れた知人友人への、無事を知らせる音信代わりに始めて、今もそれであるはずの、このページですけれど。ここ何年も、生きてるのかしんでるのかもわからん頻度の書き方ですものね〜。申し訳ないと思ってます。いつかも、たぶん何度もふれてますが、随筆・夕顔の中で、それに若いうちに気づいてしまうと先がおもいやられると書かれていた、それというのは、おそらくこんなことだったのではなかったでしょうかねぇ。
かつて、筆者にとってのお能を真似して、わたしもごじゅうになったら、おとこのひとのすなるものゆえと、クラブを置こうかなぁ、と、思ったこともありましたけれど。はて。さして、夢中でもないけれど、時々、ひそかに、思い通り打てるアプローチやパターの手応えくらいにしか、ささやかな歓びのない暮らしにあっては…。その、潔さにも至りませず。
お金にも名誉にもなんでしょう目立つことにも、一般に多くのひとのこころをとらえるはずのものごとに、大きな動機もエネルギー点火も感じられないとなれば、はて。なにが、したいのでしょうねぇ。たとえば、大きな試合なんかで、きめ細かにラインを、読んでそれがとても甲斐ある時間が続いたりしたときには、やり甲斐、そして元気を思わずもらっていることに気がつきますねぇ。
鷲田さんも、噛みきれない想いの中などで、言われてるように、あなたでなければいけないと想ってもらえているとき、ひとは、生きてる実感を強く感じられるのでしょうね。かと言って。介護に代表されるようにそれが長時間逃げ場のない形で現れてしまうと、一転、苦しみ以外の何者でもなくなるのでしょうねぇ。
恐らく、ほんとうに強いボール、ほんとうはこんなのが打ちたかったというボールを、追い求めてはいるけれど、いちどもひとに乞うたり、習ったりすることもなく、何十年も現場でしかボールを打たない人の中にこそ、さりげなく、つかまるボールを、捉えられるグリップの仕方を知って、ものすごく喜んでもらえる方なんていうのは、練習場にはいないのでしょうねぇ。
しかし、それを文章だけで、わかるように書く、というのは、はなして可能なものなのでしょうかねぇ。
待つというのも、待たせるというのも、結局、ときの流れを待ってるという点においては、どっちも同じ、と、書いてくれたのは、やはり、鷲田さんでしたが、待つものも待たせるものも、持ち合わせてないような感じになっているとき、やっぱりそこには、寂しさだけがのこるのですよねぇ。なにを、どう描いたら、書いたら、いいのだろうと、思案してるうちに、むなしと思う時間とともに、人生の多くの時間が過ぎて、まあ、それもひっくるめてひとの時間なのでしょうね〜と、しめくくる流れになってしまって…いささか、われながら、きょうはやっぱりさびしさのつのるあきの夜長になりそうですねぇ〜。人生ってなんなのでしょうねぇ。