秋が深まるなか、連日のようにこころに浮かぶことばや気持ちをここに書き連ねることで、こころに酸素をなんとか届けていた頃が少し懐かしい。そんな気がします。心が動く、こころがさけぶ、こころがなにかを想う、そんなふうにいられるときは、じつは、そのときはすごく必死で、すごく夢中で、すごくつかれてしんどいと思うことばかりかもしれないけれど、それでも、過ぎて振り返ると、そんなふうに何かを想い、なにかを期待して、たとえ無理かもとはわかっていても、かすかにでも願いたい、待ってたいとおもえる、そんなときのなかに、いるときが、実はとっても恵まれてるのかもしれないですね。それは、願いが叶ってしまうことより、もしかしたら、ずっともっと、しあわせな時間なのかも、と、ふと思えたりもします。何かを願う、何かの到来や変化を願う、何かを期待して待ちたいと思える、それだけのことが、どうして、ひとは、年齢を重ねるにつれて、できにくくなって行くのでしょうね。まるで、もう先がないことが、わかっているかのように、そういう展望のある見方ができにくくなってしまうのでしょうね。年上のだれかと話していて、すぐにわれわれはもう先がないから、でもまだあなた方はいい、などと言われたりすると、ものすごく大きなガッカリを感じるものです。それは、若い人への励ましの延長なのかも、しれないけれど、まるで歳を重ねるということは、すごくつまらないことですよと、言われているようで、二重の意味ですごくガッカリしてしまうのです。いまが、幾つだとしても、このいまを生きるのが、目の前の時を過ごすこと。そのものが、もし、生きるってことだとしたら、その歳その歳でしか、感じられないことや考えつかないことが、あるはずで、予想生命時間の長い短いで、まるで、生きてることの価値そのものが減っていってしまうかのような、そんな、感覚の物言いが、当たり前のように、かわされている感じかをものすごく、残念だなぁと、思うのですよね。
無論、年齢がついにある大台を超えてしまうと、かつては、こんなふうにおもうことがあるなんて想像出来なかったふうに、ふとこの先の残り時間の少なさから、なにか店じまいの支度が迫ってくるような義務感に、こころの酸素を奪われてしまうことが確かにあるのは、やっぱり悲しくて残念ですねぇ。そして、ふと、そんなふうに、あとなにができるだろうとか、なにが残っているのだろう、なんて、悲観的に思案している、自分自身のこころに、すごく哀しい思いに包まれてしまうことに、愕然とするやら、嗚呼これが、歳をとると言うことなのかなあと、感慨したり…。たしかに、そんな、悲哀と、ささやかな自分への慈しみを含んだ、しみじみな感慨を、だれかと共感しあうような会話できたら味わい深いのだろうなぁ〜、というのは、思います。確かに。
とはいえ。それはそれとして。それでも。それと、歳をとることを諦めの大義名分みたいに、口癖のように、話を耳にする人のだれもを、たのしい気分にさせることのない、感覚や、言葉のやりとりが、あまりに多すぎてるように、感じるのはわたしだけなのですかねぇ。それどころが、まだ、はるかに子どもみたいな年齢の若者でさえもが、もう、この先が見えてしまっているかのような感覚に見えることも、よくあって、やっぱり、スマホなしではいちにちも過ごせないだろうなぁと、思える大量の若者たちを見ていても、なんだかとてもかなしい景色に映りますねえ。自分の頭で、考えて、言葉にして、手で書いて…、そんな時間は、スマホがなければ、もっとたくさん生まれてくるような気がするのは、気のせいなのですかねぇ。街を歩いても、電車に乗っても、見渡す限り、スマホにかぶりついてるひと、ひと、ひとの、なんと多いことでしょうねぇ。
ずうっと、生きるってなんなのでしょうねぇ〜。と、そんなことを、考えてるだけで、そして、ここにこんな独り言を、書くぐらいしか、なにもしていない、わたしには、なにも偉そうなこといえる身分ではないのですけれど、なにか、もう少し、希望的、生産的で、それでいて、だれかを役に立ってる、甲斐があると、思えるような、そんな時間をほんの少し、もてたら、うれしいだろうなぁ〜と。そうはいっても、お金がほしい〜とか、偉くなりたい〜とか、そういう金とか箔とかに、ほとんど頑張る動機をもらえない、わたしは、はて、どうしたら、なにか励みのある時間を持つことができるのだろうなぁ〜と、思案をしているばかり…で、きっと、そうしているうちに、時間が過ぎていくのでしょうね〜と、まるで、人ごとみたいに、無論、多少の痩せ我慢込みだけど、ともあれ、そんなふうに、おもっているのですよね〜。
それでも、ふと思うのは、誰かに乞われて、そう、例えば、グリーンの少し複雑なラインを読んで、それがだれかの役に立って、目の前で喜びの結果を共有できたりするような、そんなときには、やっぱり、ひとは、だれかの役に立ってるって喜びがあれば、生きられるんだなぁって、いうとことで…。甲斐のある時間に、触れられるのは、生きてる励みになるのだなぁと。
ただ、そうなふうに、感じるのは、なんというか、まるで。老年の諦念に満ちた感慨なのかなぁ〜、これじゃあ、若さにかけているのかなぉ〜と、思ったり。人それぞれに、がんばれるポイントは、違うのだから仕方ないとは、おもうのだけれど、なるほど、常に自分ではなく、相手が軸になってしまう、星周りに生まれてしまった身としては、その、相手のいうのが、ないとき、わからないとき、思いつかない時、そばに感じない時、ほんに、ガソリン入れても永遠に点火しないエンジンみたいになってしまって、自分ながらに、哀しくむなしくなってしまうのもまた、然りなのでありまする。にんとも。一時が万事、こんなふうだから、時々、からだの疲れにあわせて、こころの酸素がなくなって、充電切れにんげんになってしまうのでしょうね。
うっかり、それを、聞く余力?聴くちから、こころの大きさ?のない人に話してしまったりしたらば、よけい、酸欠が進んでしまうような、あーすれはいい、こーすればいいのマシンガン命令が飛んで来たりして、疲弊だけですまなくなるから、これは要注意。ともあれ、ただ聴くだけでいい、というのを、することができるのは、たぶん、こころの畑に養分がいっぱい詰まっている人にしか、なかなかできない、偉業、滋養なのかもしれませんねぇ。
そんな、行間に、味わいや滋養が、いっぱいつまった、そんな、ゴルフができる時間は、きっと、生きてる時間に味わえる、貴重な希望あふれる時間なのかもしれないですねぇ。つまり、今この時を、共有してる。そんな時間の中にあるということ。
高校生の野球は、あんなに爽やかで多くの大人にあんなにたくさんの元気をと勇気を与えるのに、どーして、ただ飛ぶだけ!の、若者のゴルフは見ていても、味気ない気がしてしまうのでしょうかねぇ。これは流石に、わたしの偏見、おへそまがりの感覚なのでしょうかねぇ。飛ばなくても、その一打一打の、重さや味わいが、シニアのそれのほうが、見ていて味わい深いのは、比でない、ともおうのは、わたしだけなのですかねぇ。転がるボールが、語っているものの奥行きや重さが、まるでちがうと感じるのに…。結果の数字だけでは、決して見えない、わからない、味わいがそこにはあるのに…。もっと細かく精密に、どこをどんなスピードで、どんなふうに、ボールのどこをどう打ったらどう転がるかを、精一杯工夫して、打たれたボールを見ているのは、惚れ惚れする姿を見送る時間の ような、みずみずしさが、こころに爽やかな風が吹き抜けるような清々しさが、そこにはあるのに…。それなのに、ただ、たんなる数字だけにこころをほとんどを、もっていかれてしまうのは、あまりに残念でもったいないことこの上ない、そんな気がして仕方がないのですけれどねぇ。つまりは、一打一打にかける姿勢って、ことなのですかねぇ。美になるか、醜にになるかの、大きな分かれ目は。腰が、もし、少々曲がったとしても、シワが少々多くなっていってるとしても、そのひとの、こころに、姿勢に。ピンとした真っ直ぐななにかが、あるなら、飛んで行くボールは、きっと、綺麗な姿をしていて、見ている人が思わず応援したくなってきまうものだろうなぁ〜。そんなふうに感じますねぇ。ともあれ、どうせ入らないと思って構えて打ってるパターほど、みていてかなしいものはないですねぇ。どんなに難しくても、なんとかしようと、構えてる姿勢はすごく美しいし、応援したくなる。そんな、機会を少しでも多く持てるのなら、小さな失敗がふえるほど、たくさん挑戦できる回数が増えるのだから、ひゃくをうってもちっともかなしくむなしくないでょねぇ。むしろ、たのしいはず。なあんて、そんなゴルフの感覚を共有できるひとが、もし、あったとしたら、どんなに楽しいものでしょうねぇ。
っと、時々、こんなふうに、まとめて、言葉が降ってきます。頭の中に…。びょうきということばはつかいたくないけど、わかっているとはいえ、いささか、たいへんな性質を持ち合わせてしまったものですねぇ。
そうだ、おもいだした。それから。たとえば、ゴルフについていえば、必死で、この人だけには負けたくない!と言えるような、好敵手にめぐまれてるひとをみると、ほんに羨ましいですねぇ。確かに、さっきいった、数字なんて二の次!っていうのに、幾分、矛盾してしまいますが。おんなだけで、戦う試合にでても、なにが楽しいの?面白いの?って感じてしまうわたしはやっぱりおかしな生態なのですかねぇ。やっぱり、女の人で味わいのあるボールをうったり、行間のあるラウンドをできる人にほとんど出会ったことがないからでしょうかねぇ。女同士が戦ってどうするの?って思ってしまうのですよね〜。それなのに、プロを目指したいなんて、むかしむかしどの口が言うたんや〜って。確かに思いますけれど。いつも、肝心なことに気がつくのが遅いのですね。ど真ん中が見えていない…。ところで。ほんまに、人生ってなんなのですかねぇ〜。解のない計算に挑む数学者と、似たような感覚なのですかねぇ〜。こんな問いを、ずうっとこころでつぶやいているのは…。生きるってなんなのでしょうねぇ〜。なあんてことを思いながら、ゴルフする人、どこかにいませんかねぇ〜。老いてからの過ごし方、時間の送り方、気持ちのもちよう〜、そんなことが、ものすごく、難しくなるばかりの、時代になってきましたねぇ〜。