秋の、夕暮れはどうしても、こうももの悲しく、さびしく、いとおしく、あっというまにやってきてあっというまに、さっていってしまうのでせうね。山の端だったり、水平線の向こうだったり、ともあれ、残り香のようなかすかな、橙色の部分にどんどん、澄んだ群青色の部分が拡がってきて、グラデl-ションがきれいだなと、おもったとおもうと、もうそらには、明星やお月さんが光を帯びていて、あっというまに、あたりは、真っ暗。ススキも稲刈りを終えた田の色も、すうかり暗がりの向こうです。空が澄んでいるから、昼間の、雲のたなびいたり、拡がったり、もようになってりしている姿も、もう二度と同じ形の模様のないことが、観るたびに、そこはかとないもの悲しさを、醸しているのも、なんともはや、歳をかさねるというものは、おそらくきっと、見るもの、みえてくるものがかわっていくということなのでせうか。

 

おもうに、からだのへんかがおとぞれはじめる歳を、ひとまず、おいのそれというとするなら、(もっともおいとは、こころのそれはちがうというねがいと違いについては、ひとまずおいておいてという意味ですけれども)男の人のかんれきあたりが、おんなのひとには、それより、絵とひとまわりぶんくらい早く訪れるということなのかもしれませぬねぇ。も飛ばなくなるし、忘れっぽさは、どうしようもないほど、あきれるばかりだし、(私自身のことですよ)、忘れた事を忘れているしで、しあわせないのだか、あわれなのだか、おそらく、そのりょうほうでせうけれども。ともあれ。からだのなかがすこしずつ、必要とする栄養素やその量を異なしてくるころ、ひとは、また、若いだけのときとは違った、時間の重ね方を、はじめていくのでせうか。いずれにしても、脳幹がふとくて、右脳と左脳の連携がいいらしい方は、芝目だけはおそらくきっとよく読めますが、忘れる方もよほど早く、じてやってくるのでせうかねぇ。勘だけは、かろうじて、生きておりまするが。

 

便利と引き替えに、なんと、含羞のわかるおとなのおとこのひとが、西暦がふえればふえるほど、どんどん減っていってしまっているようにおもえるのは、気のせいでせうか。若く観られることのどうしてそんなにいいことなのか、パターするとき補足する意味とおなじくらい、さっぱりわからない、少なくとも出力のほとんどを右脳でやっているらしいわたしには、さっぱり理解にくるしむばかりでして。。。ばっくほーむするときに、歩測してから投げる野手がいますか?と、つい、こころのなかでおもってしまうのですね~。これは、だれにも言えない内緒ですけれども。しわがかっこいいのに。年輪のないふとい樹木はかっこいいですか?と、つい訊いてしまいたくなるのですよねぇ。カリブの島で9回投げさせてもらったときの、カメラマンの方は、年寄り若く観られるのが嫌だと言われてのが、とても印象的でした。その方の当時の歳はとうの昔に越してしまいましたが。。。18回をひとりで投げた、北端の県のあの投手の3歳下で、小中大と、とても捕手とは見えない体型でしたが、高3の夏は、後輩の守備が堅固でなくて大舞台は逸したそうです。北の大地での就職も、ノンプロも決まっていたのに、当時観た、何かの映像がきっかけで、それらをやめて、カメラマンになられたそうです。パスポートには、数え切れないほどのスタンプがありました。その方が観た映像って、何だったのでしょうと、訊きそびれたままいまです。それほど、人生の決心をかえるほどの映像って何だったのでせうねぇ。今でも、もし訊けるものなら、訊いてみたいです。キャッチボール。いいですねぇ。このボールが君に届けば。。。。そう願いながらこれを書いています。

 

絵もほんとに、行けるときは限られていますが、もう、初めて1年と10ヶ月ほどになります。まだ、5作ほどしか出来ていません。それも4号3号以下のものばかりです。ただ。筆と、色と、夢中で描いているときだけは、無心になれるのがとても嬉しい時間のひとつです。つい、いましかない、と思える、空や、雲や、夕暮れの色合いなどを、車から遭遇するたびに、カメラに収めておきたいと想うようになったのも、歳のせいか。。。あるいは、絵を描くようになったせいなのか。。。カメラと言っても、ケータイという名の、その機能で撮ってしまうのにすぎませぬが、走りながらの一コマほど、よりいっそう、その刹那感、瞬間感!?がでるように思えて。。。海と空と雲と、そこに夕焼けの色が混じろうものなら、手がついつい、カメラボタンを探してしまうとなのですねぇ。10月終わりの、24節季はなにでしたっけ?日和がよければよいほど、いまことのときをとめてしまいたい。。。そうおもえる空気が漂う季節に思えます。。。