いっせいにひらくのでしょうね。いっしょうちびまるこちゃんでいられたらなぁっておもうとき、
ほんの少しだけあるような気もしないでもないですねぇ。もし、おじいちゃんというものがいたらどんなだったのだろうなぁっておもいます。おばあちゃんというものが。いったいそれは、どんな感覚なのでしょうかねぇ。孫という立場にはなれませんでしたから。漫画とは言え、みていると、素直にいいなぁっておもいますねぇ。いっしょにジュースを飲みたくて~。そんな風におもえる存在が家の中にあるというのはいったいどんなにありがたく、うれしいものでしょうねぇ。

もし、おんな同士の、それも年齢の近いきょうだいというものがあったなら、あんなふうに、遠慮なくこころの芯の、そとでは決して見せられないような、(まぁそんなことないのでしょうけど)、自我とエゴのかたがまりどうしをぶつけて、ことばでこうげきしあって、とっくみあいのけんか。。なんていうのになるのでしょうかねぇ。でも、それができたひとはそれだけでも、しあわせなことなのかもしれないですねぇ。おんなどうしの遠慮のない、おそらく醜さの固まりのようなもののぶつけ合いを、遠慮なくできる相手が持てるということは、それだけで、恵まれているのでしょうねぇ。もっとも、要するに、人格とか、ひととしての大きさや寛容さと、やさしさの種類などなどが問われてしまうのはいたしかたないこととしても。。。

そんなことより。ひととして、こころからひとにやさしくできるということの、ありがたさ、すばらしさをおもいます。ほんのちょっとしたひとことが、だれかのこころの救いになることがあったり、なにげない一文に、書いてくれた人の、あったかい気持ちがにじみ出ていて、つかの間、ほんとにやさしい気持ちをもらえたことに、心底うれしいとおもえることがあったり。そんな風に、やさしさのにじみ出る一文を書くことの出来る、自分より年上の女性がいることが、なによりうれしいと感じたり。ほんに、ことばとは、そのひとそのものなのですねぇとおもいます。やさしさは、薬を飲んだり、なにかをどうかしたかもらといって、大きくしたり、形をつくったりできるものではないですからねぇ。日頃のいろんなおもいかたが、ぜんぶそこにあらわれるのだとおもうと、ほんとにすごいことですねぇ。

はて、このよに、無慈悲の無限のやさしさをあいての大きさ如何にかかわらず、素直に向けられるおんなのひとというものが、あるものなのですかね。これは、おんなのひとの定義によります、で、済まされてしまいそうですねぇ^^;。だからこそ、やさしい一文を書くことの出来る人のありがたさをしみじみおもいます。年を重ねるごとに、こころ豊かに懐のおおきなおばあさんになることができたら、どんなにいいことでしょうねぇ。かえるのしっぽねこのみみいいなぁ。かおは、そのひとがらそのものを映し出すものなのですねぇ。だから、自分ではみえなくていいようになっているのかなぁ。じゃないと、自分でみえてたんじゃあ、恥ずかしくって気になってしかたないですものねぇ。しあわせってなんでしょねぇ。田舎に暮らすとなおさらしみじみ感じますです。103歳の篠田さんの話し方とってもかっこいいなぁ~。