「おい!おまえのあの信念とやらはいったいどこへいったのだ?」そう、訊かれたら、なんてこたえられるのだろう。わからぬ。ひとは、いや、わたしは、ひどい。じぶんでもそうおもう。じっさい、おまえはほんとうはどうしたいのだ?もし、そう訊かれても、胸を張れる自信がない。少なくとも、いまは…。ただ、30年の想いのまえには、かなわなかった…。そういったら、奇麗事…、勝手ないいわけになってしまうだろうか。わからぬ。どうしたらいいのか、ほんとうにわからぬ。ひととは、ほんとうに、ひどい生きものなのかもしれない。どこまでが、自分のためで、どこまでが、相手のためかなんて、とてもわからぬ。ただ、ことばにできない想いとやらが、ただ、涙になってこぼれるほかは…。タイトルを変えた時点で、自分の中では、はっきりとした句切りをつけたつもりなのに、それでもなお、おなじところに書き続けているということ、そのことに、自分でもいわくいいきれない、ずるさとかなしさを隠し切れない。かなしい。


半年の研修を終えて帰国した友人が、手料理でもてなしてくれた。曰く、わたしは、(ちからを)もてあましているのだ、と。ありがたい、買い被りだが、しかし、多少は、確かにアル。なるたけ、目立たず、だれの嫉妬もうけずにいられる状態、これ、自ら望んでそうしていること。とはいえ、こうして、ことばを、ときどき書かずにはいられなくなる、叫びをことばに、映して、少し薄めて、少しとぼけて、少し気取って、少しやせ我慢して…、ともあれ、こうしてでてくることばを、書くことで、なんとか、こころのバランスをとってきたわたし。であることには違いない。この場がなければ、はて、どうやって、こころをうまく保てただろうか。それにしても、件の友人の手料理は、上手い。ちょっと驚く。語弊があったら、陳謝するが、少なくとも、女性が作る料理でほんとうに美味しいと思えるものは、正直なかなかない。見た目がいい、というのは、あったとしても、口に入れて、美味しいというのは、なかなかない。これは、たぶん、わたしが女性であるせいか、料理は、異性につ
くってはじめて味が出る、そう信じて疑わないわたしのせいか、それはわからぬが。天性のものもあるのかな。自分がほんとうに食べたいとおもうものをつくれば、間違いなく、美味しくなる。もし、そうならないとしたら、それは、自分にはできない(仮想の)ものをお手本にしているからだろう。それにしても、料理上手が揃いもそろって、売れ残るというのは、はて、なんの因果か。いやはや、苦労が、料理の味を引き立てるのですかねぇ(ああ、こんな冗談、いってるだけでも、むなしくなるぞ…)。


話を戻そう。木戸哀愁をともにできるということ、きっと、そんなささやかな時間時間の積み重ねがしあわせなのでしょうなぁ。ひとは、いつでもないものねだり。ど~して、こ~も、いつまでたっても、ひたすら来ないものを待ち続けてしまうのか。出番待ちしてる間に、人生が終わってまうっていうのに…。なんて、お人よしで、やせ我慢で、おおばかなのでしょうねぇ。それでもなお、みんなしあわせでいられたらいいのに…、なんて、ほざいたりして…。ああ。われながら、ひどい。ほんとにひどい。肚を決めて、「わたしはなにがなんでこ~したい!」そう、言えたらどんなにいいだろうなぁ。(またしても、ないものねだりだ)。できることも、(そう)できないことも、全部ひっくるめて、それがそのひとだというのに。あああ。わたしは、いったいどうしたいのだろうか?(もちろん、そんなことは、言わずとも、決まってはいるが。言ってもかなわぬことを言うのは虚しいだけである。)ひとは、みな、かなわぬ虚しさと悲しさを背負って生きているのだ(ということにしてくだ
さい)。ああ。いつになく、みだれますねぇ。われながら、自分に困っています。いつも、ひそかに言い聞かせる。いざとなれば、生きるのやめればそれでいい、と。本気にされたら、困惑するが、ともあれ、そうやって、ささやかなこころの(架空の)逃避行で、つかの間、元気を充電できるなら、それでいい。そうおもってやっているが、あんまり多用しすぎると、効果が薄れるきらいがある。なんでもそうだが。


こうやって、あ~でもない、こ~でもないと、書いていながら、ふと、気が付くのは、しあわせになりたくて、ひとは生きているのか?違うよね。目の前のなにか、夢中になれるものがときどきあって、時間の経過を忘れられることが、ときどきあって。やるせないことや、やってられないことや、理不尽なこともときどきあって、それでも、わたしがんばってるわたしえらいよなぁ~。そう自分に言い聞かせられる瞬間がときどきあって。つまりは、それで、ひとは充分しあわせではないのか?そして、あとは、頑張れる対象があるということ。自分の事だけが、世界でいちばん、しぬほど好きなら、ひとりでも充分しあわせだろう。たぶんね。家族のために、なら、頑張れる、というなら、家族があればそれでしあわせだ。たぶんね。いないからわからないけど。ひとりで、両方を同時にするのは、できない。たぶん、夢がかなったあとよりも、いつかきっとかなうかもしれない…、そう、信じて待ち続けられることそのことが、いちばん充足できる瞬間なのかもしれない。(そうでも、おもわ
なければ、とてもやってられないではないか!うん?わたしは、いったいなにに怒っているのだ?いや、そも、怒ってなどいない。どこにも、ぶつけようのない、かなしみのやりばにちょっと困っているだけだろう。一晩も眠れば忘れるに違いない。)それにしても。どこを、どうおもっても、やっぱりかなしいね。(っと、溢せるというのは、ほんとはとても恵まれていることなのにな。)


なあんて、もう、当分、ぜったいにこころのうちなんて、見せないんだから…。(もう、書かない!)そう、こころに誓ったのに。わずか、とうかでもう挫折!?しているこのわたしだ。あああ。ひとのきもちの、なんて、たよりないことか…。これだけでも、おもうは易し…、が、いかにたやすく、実際に行動に移すことがいかに困難かがわかるのに。こと、自分を棚に挙げて、ひとに、あれもしてほしいこれもしてほしいと、望むなんて…。恥ずかしさの極みなのにねぇ。どうして、こころが弱くなるとついつい、余所に(自分以外の身近な何かに)、足りないものをうめてほしいと、願ってしまうのですかねぇ。こころが、すかすかになるのは、ほぼ己(の弱さ)が、原因なのにねぇ。まったく、しぬまでなおらんのですかねぇ。ひとの、さびしさをうめるのは…。