泣きながら眠ったら、起きたとき、一瞬、いまがどこでそして、いったいなんじごろなのかさっぱりわからなかった。たまにはいいのか。それにしても、涙の蛇口のパッキンがすこしいかれてしまったらしく、起きてもなお、こぼれてくる。まいった。これも春の風物詩なのか?ときどき、不意に落ち込んでしまう(いつかも書いたが…)。ブルーホール(ブラックというとほんとうに暗黒な気がするので、せめてブルーと呼ぼうかと…)。わたしは、ここでいったいなにをしているのだ?これでほんとうにいいのか?わたしの人生もっとほかに(どうにかすることは)できなかったのか?どうして、しばられなきゃならんのだ。もっと、風のように自由にはなれないのか。えとせとら…。するともう、こころはひとり勝手に、思春期の子のように暴れん坊状態に…。きっと、みんなおなじだろう。(!?)。わたしはほんとうにどうしたいのか?かいほうされたい。このいえから。どこにも帰らなくていいひとりになりたい。(ほんとうにそうか?違うんだろうな。でも、こころはひたすらすね
ていく…)。彼女への責任から晴れて!?かいほうされたら、ひとり、旅にでよう。もどってももどらなくてもいい旅に…。もちろん、一応、彼女がでる“旅”とは別の種類の旅にはしたいが…。なあんて、現実にはありえない(本心の願いではない)ことをいくら、こころで叫んでみても、こころが晴れようはずなどなく…。そして、涙がひとりでにあふれる。うああああ。

かつて。ひとにいわれたことがあるのだが。わたしは、好きな人には自分からどんどん言って行動するひと!のように見えるらしい(まぁ、われながらそれを知りつつそれを鑑み、“知らんぷり”で、防衛!?にせいこうしていることもあるのやもしれないが)。それが、余計なプライドのせいなのか、はたまた、もともとたいせつなひとにほど、本音を口にしない方の人種であるせいか、そこいらへんは自分でも正直わからぬが。いちども、自分から言ったことはない。つまりは、そういうことだ。いつも、言いそびれたまま、時が流れ、ひとりでに会う機会もなくなってしまう。まぁ、それだけ、ほんとうに好きとおもえるひとに、出逢ってなかったといえばいいのかもしれない。少なくとも、自分から言えたことがないということは、自分がほんとうにすきとおもうひととともにすごしたことがないということでもある(ちょっと残酷だが)。おもうに、そうしそうあいというやつは、おそらくたぶん、10の10乗!?ぐらいの奇跡なのかもしれない。あれ?なんでこんな話になっ
たのだろう。そういえば、これもかつてのはなしだが。あるとき、そう、あの風の強い突端で働いていたときだが、荷物運びの途中、横に居た同僚に尋ねたことがある。「ねぇ、愛と10億ならどっちがいい?」と。彼女、少し哀しい顔をしながら、それでも、「そりゃ10億だわ~」。だって。おなじように、お金に(少し)不自由していても、ひとによって、望むものは多少!?違うのかもしれない…。それなのに、案外、そう言うひとほど、どこまでも(dorodorono?)“愛”を描いた海外のドラマにどっぷりと浸かっているのは、どうしてだ??

してみると。ひとは案外、自分自身の本当のこころに気づくまでに、かなりの時間を必要とするってことなのだろうか。そう、人生まるまる。気付く頃には…、って、ことなのかなぁ。ひとのふりみてなんとかというけれど…。そして、たしかに、そんなささいなひとの選択!?を耳にして、自分はそうではない(つまり、間違いなくそう訊かれたら前者だとおもえる)ことに、ホッとしているのも、また事実だ。だがしかし。(わかっていても)いえの重圧からのがれられるものならのがれたい…、そう願っているのもまた事実。かえるところのないふあんか、にげるところのないかなしみか…。ひとは、いつもないものねだりだ。だめだ。パッキンの調子はいっこうに改善しません。もし、目の前に、500円と100円が落ちていたら…。一縷の迷いもなく、100円だけ拾ってさっと立ち去れるひとでありたい。こうやって、ことばにすると、いとも簡単にそういいきれるが、実際に自分がそういう立場となったなら…。やっぱり、500円のほうにこころが少しは動くのではないか。
あるいは、もしや、あわよくば、両方とも…、なんて、気をおこしても決して不思議ではないのかも知れぬ。綺麗に生きるというのは、ほんとうにむずかしい。だから、それだけ価値があって、たまらなくかっこいいのだけれど。そして、それをわかってくれるひとは、ほんとうにひとにぎりしかいない(のだろう)。(だから、素晴らしいことなのだけど)。わああああ。あと40年(50年?)、どうやって生きていこうか…。