ちなみに、わたしのなまえは、父がつけたものではない。らしい。(そういえば、そのことをいちども父に尋ねたことはなかった)。母の叔父にあたるひとだと、母が言っていた(これはさすがにほんとうだろうとはおもうが)。母の妹はいとこどうしで家族になったので、その義父にもあたるひとだ。いくつかある候補のなかから、わたしのなまえが選ばれたらしい(ん?じゃあ、その候補はだれが考えたの?父なのかなぁ)。子どもは親をえらんで生まれてくるというが、名前もやはり、なにがしかの縁をもってつけられるのだろうか。ちなみに、わたしは、祖父(母)の顔をまったくしらないが、父方も母方も、そしてそのまた上の代の曽祖父も、その名前がとてもかっこいい。いまだ、おなじ名前の人を、ほかで聞いたことがない。ま、それはいいとして。ともあれ。なまえの響き(つまり、音)は、とても気に入っているが、名前の漢字は、小さいころなかなかバランスがとれなくて、ちょっと苦手だった。それに、現実にはありえない構成!?の文字にもちょっと抵抗があったし。
と、いいつつも、いつかのためとかいいながら、サインの練習してたりもしたのだけれど。

ときに、さきにでてきた名づけ親の息子にあたるひと、つまりわたしからみて叔父さん(であり、母のいとこ)なのだが、が、わたしを最初にお風呂にいれてくれたひと。わたしが産まれた街で、建設会社をしていた。かならず、わたしのお風呂の時間になると、飲み会を中座して、あるいはまーじゃんをそのままに、家に帰ってお風呂にいれてくれていたのだとか。そして、なくなる前の日もそうやって…。ひとが産まれるということは、だれかの命を受け継ぐということなのだろうか。おそらく、ただの偶然…、なのだろうとおもうけれども。ふとしたときに、そのことを思い出す。残り時間というのは、だれにも、みんなあるものだけど。ただ、それを具体的数字として知る、というのは、とても簡単でない。それを、受け止めるのは。突然、目の前の時間が、まるで、帰りの飛行機が変更不能の、旅先でのそれになってしまうのだから…。それが旅なら、きゅうかの時間のひとまずの終了なのなら、ささやかなかなしみだけがこころをかすめ、再び、日常にもどって、そして、もいちど愉し
い旅を目指せばいい。のだけど。時間がいかに大事で、かけがえのないものか…。胸にしみる。

ずっと、半ばひとごとみたいに考えていた。この家を、継いでくれるひとがあらわれたなら、むしょうであげていい。老いてから、ようしをもらってもいい。そんなことを、さら~ぁっと、まるで、ひとごとみたいに。なるたけ、深く考えないようにしていたこともあるけど。それに、血というなら、ひとはみなどこかでつながっているような気もしたし。それに、平安時代からつづいているお墓だってめったにみたことないし。そんな、屁理屈でごまかしてた。要はそんなことではないのかもしれないと、このごろふとおもうようになった。老いてからさびしいだろうからとか、そういうのではなく、なんでしょう、うまくいえないけど。なにかが、胸を、むねのなかで、さわさわと、響くものが、ときどきやってくる。とはいっても、流れにまかせて…というのは、かわらないけどね。わかいころ、家にしばられて、都会にでていけないということに、どうしようもない理不尽を感じたものだったけど。いまは、どこにいても同じ、それよりもっと大事なものがあるって、わかってきた気がする
。少しずつ…。家をまもるというのは、とてもたいへんだけど、それだけの価値あることなのだと。まだまだ、まもっているといえるほど、ちゃんとできてるわけではないのだけれど…。