いつも、書くことで、つまりことばをはきだすことで、こころのなかのうまく溶かしきれないなにかを、なぐさめときにごまかし、そしてときに、鎮めたりしている…のかもしれない。これでも、それなりに、気を遣っているつもり…。だとおもってた。だから、そんな思い込みの中に、油断があったのだろう。いや、まんしんかな。ともあれ。ことばは、なさすぎてもひとを不安のふちにおちいらせるし、はんたいに、じょうぜつがすぎても、(書きすぎるほど言葉足らずになるのはどうしてだろう)、ひとをきずつける。それでも、たよれるのは、なんとかして伝えたいという気持ちと、そしてことばしかない。かなしくもあり、だから、救われるのだ、というおもいもあり…。ただ、ときに、音をともなわぬことばの難しさに直面する。考えに考えてさいごにのこった精鋭のことばたち。ときに、鋭利すぎて、ときにはまた、いかように解釈できすぎて、苦悩もする。だから、いいのかなぁ。ともあれ。たぶん、悩めるということは、ほんとはありがたいことなのだ。心配のたねがあるという
ことは。それだけ、深く想っているということなのだから…。と書いて、ほかならぬ自分を慰めている。勝手なのかもしれない。ほんに、ひとのこころのひだというのは、ほんに、ささいなことで、突然振れたりしてしまう。まるで、雪に埋もれた竹が、あるときいきなり跳ね上がるみたいに…。たぶん、実際はもっと別のことを、言いたいのに口に出来ない何かを、それぞれが(たとえば、別々のでも)抱えていて、その空気にいたたまれなくなったとき、いつもなら、特段、気にもならないことが気に障ったような気になって…、実際は、別の悩みを打ち明けたかっただけなのかもしれない…。
ある本を読んでいて、「思ったことをすぐ口にすれば、大事なことを見逃すだろう」、そんな台詞に出くわした。叱られた気がした。もっとゆっくり、よく考えてから口にしなさいよ。そう、窘められた気がした。ほんに、いつも、たいせつなことは、うしないそうになってはじめて気がつくのだ。ちょっと、ダダをこねようと、甘えようと、そんなつまらぬ根性と、こらえ性のなさが、そうしてしまう。なんだかなぁ。ひとって、どうして、こうも、おなじことをくりかえしてしまうのでしょうね。わかっているのに…。(いきなり話が飛ぶが)。いつだったろう、おそらくたぶん、同じ方の随筆のどこかで読んだ気がするのだが、おんなはしょうせつをかくものではない、いや、しょうせつはおんなはかくものではない、だったかな、ともかく、だれかの伝聞だったか、あるいは…。ともあれ。どこで、読んだかはて、いっこうに思い出せないのだけど、その真意というより、そのことばが、なぜかずっとこころにひっかかっている。いや、決して言い訳とか、そういうのではなくて。ことばと
いうのは、聞き手がいつも、己が聞きたいように受け取る…のだと、聞いたことがあるが。いずれにせよ。そのことばが意味するところに、とても深い理由があるような気がして…。そういえば、尊敬するおんなのひと(作家)でも、小説のたぐいはいっさい書かなかったひともいるなぁ。そう、おもうと、やっぱりそこに浅からぬわけがあるような気がして…、躊躇っている。あのことばの真意はどこにあるのだろう。いや、その言葉どおりだからそれ以外にどうも言い様がないのだろうか。いつも、肝心なことになると、さっぱり一歩を踏み出せないわたしなのだ。なかなか、ひとには気づいてはもらえぬのだけれど…。
わたしが帰るというと、わたしのマフラーをぎゅーっとひっぱり、あるいはわたしの手を必死で捕まえて、「いっしょに帰る…、いっしょに帰る…」。わかっていても、こころがときどき、もっていかれそうになる。あれほど、わたしを傷つける言葉を数え切れぬほど(いや、ちゃんと覚えてしまっているが)吐いて、もう二度と許してなんかやるもんかと、おもったひとなのだが…。こどものころ、とにかく、ひとりおいてきぼりになることが、ほかのなによりも、おそらくしんでしまうことよりも、こわくてたまらなかったわたし。必死で、手や、(買い物袋で)手が塞がっているときは洋服の裾や、とにかく外に出たときの、あの不安と、そばにいるひとにすがっていたときの気持ちが、ふと蘇ってくると、いま目の前で、わたしの服のすそを握り締めてるその手が、なんとも、せつなく…、かなしい。たぶん、そんなことは、ただの感傷なのかもしれない。そんなことに、気をとられてないで、あなたは自分のすべきことをちゃんとしなさい!。そう、言われる声が聞こえてきそうだが、に
んとも…。以前よりも、言葉を吐くときのその元気が随分と弱っているような気もして、以前にも増して、帰りたがるのは、なにかその…、わかるものがあってのことだろうか…。と、また、勝手に気をまわして、こころを迷わせてもいる。もっとも、もちろん、いま無理をして、風邪でもひかせてしまえば、もとのもく~、かえって苦しいおもいをさせるだけなのはわかってる。でも、なにが幸でなにが幸でないかは、必ずしも一概には~。なあんて、おもうと、永遠の堂々巡り。ひとは、やっぱり家族がいるから、少々のつらいことにも耐えられるのかもしれない。ほんに、いつも、上手くいえなくて、もどかしいことばかりだけど…。うう。ちょっと、せつない。
ことは。それだけ、深く想っているということなのだから…。と書いて、ほかならぬ自分を慰めている。勝手なのかもしれない。ほんに、ひとのこころのひだというのは、ほんに、ささいなことで、突然振れたりしてしまう。まるで、雪に埋もれた竹が、あるときいきなり跳ね上がるみたいに…。たぶん、実際はもっと別のことを、言いたいのに口に出来ない何かを、それぞれが(たとえば、別々のでも)抱えていて、その空気にいたたまれなくなったとき、いつもなら、特段、気にもならないことが気に障ったような気になって…、実際は、別の悩みを打ち明けたかっただけなのかもしれない…。
ある本を読んでいて、「思ったことをすぐ口にすれば、大事なことを見逃すだろう」、そんな台詞に出くわした。叱られた気がした。もっとゆっくり、よく考えてから口にしなさいよ。そう、窘められた気がした。ほんに、いつも、たいせつなことは、うしないそうになってはじめて気がつくのだ。ちょっと、ダダをこねようと、甘えようと、そんなつまらぬ根性と、こらえ性のなさが、そうしてしまう。なんだかなぁ。ひとって、どうして、こうも、おなじことをくりかえしてしまうのでしょうね。わかっているのに…。(いきなり話が飛ぶが)。いつだったろう、おそらくたぶん、同じ方の随筆のどこかで読んだ気がするのだが、おんなはしょうせつをかくものではない、いや、しょうせつはおんなはかくものではない、だったかな、ともかく、だれかの伝聞だったか、あるいは…。ともあれ。どこで、読んだかはて、いっこうに思い出せないのだけど、その真意というより、そのことばが、なぜかずっとこころにひっかかっている。いや、決して言い訳とか、そういうのではなくて。ことばと
いうのは、聞き手がいつも、己が聞きたいように受け取る…のだと、聞いたことがあるが。いずれにせよ。そのことばが意味するところに、とても深い理由があるような気がして…。そういえば、尊敬するおんなのひと(作家)でも、小説のたぐいはいっさい書かなかったひともいるなぁ。そう、おもうと、やっぱりそこに浅からぬわけがあるような気がして…、躊躇っている。あのことばの真意はどこにあるのだろう。いや、その言葉どおりだからそれ以外にどうも言い様がないのだろうか。いつも、肝心なことになると、さっぱり一歩を踏み出せないわたしなのだ。なかなか、ひとには気づいてはもらえぬのだけれど…。
わたしが帰るというと、わたしのマフラーをぎゅーっとひっぱり、あるいはわたしの手を必死で捕まえて、「いっしょに帰る…、いっしょに帰る…」。わかっていても、こころがときどき、もっていかれそうになる。あれほど、わたしを傷つける言葉を数え切れぬほど(いや、ちゃんと覚えてしまっているが)吐いて、もう二度と許してなんかやるもんかと、おもったひとなのだが…。こどものころ、とにかく、ひとりおいてきぼりになることが、ほかのなによりも、おそらくしんでしまうことよりも、こわくてたまらなかったわたし。必死で、手や、(買い物袋で)手が塞がっているときは洋服の裾や、とにかく外に出たときの、あの不安と、そばにいるひとにすがっていたときの気持ちが、ふと蘇ってくると、いま目の前で、わたしの服のすそを握り締めてるその手が、なんとも、せつなく…、かなしい。たぶん、そんなことは、ただの感傷なのかもしれない。そんなことに、気をとられてないで、あなたは自分のすべきことをちゃんとしなさい!。そう、言われる声が聞こえてきそうだが、に
んとも…。以前よりも、言葉を吐くときのその元気が随分と弱っているような気もして、以前にも増して、帰りたがるのは、なにかその…、わかるものがあってのことだろうか…。と、また、勝手に気をまわして、こころを迷わせてもいる。もっとも、もちろん、いま無理をして、風邪でもひかせてしまえば、もとのもく~、かえって苦しいおもいをさせるだけなのはわかってる。でも、なにが幸でなにが幸でないかは、必ずしも一概には~。なあんて、おもうと、永遠の堂々巡り。ひとは、やっぱり家族がいるから、少々のつらいことにも耐えられるのかもしれない。ほんに、いつも、上手くいえなくて、もどかしいことばかりだけど…。うう。ちょっと、せつない。