つれづれなるままに、書いていたい。そんなときがある。つぎからつぎから書きたいことが浮かんで…、さも、いいことがたくさん書けるような気がする、そんなときが…。だけど、実は、そういうときは、つまり、こころがとてもうまく漂っているときで…、そういうときは、つまり、なにもしないで、ただ、そんなつれづれにこころに浮かび来るよしなしごと…たちと、浮かんでくるままにともに佇み、ただそこにいるだけで、ふんわりゆったりできる空気のなかにあるから…、あえて書かずとも、時が、穏やかに流れていく。そして、よし、書くぞ!と、パソコンに向き合ったとたん、あれ、なんだっけ?さっきまであんなに、いい感じに流れていたのに…。おやおや、これでは、まるでいい夢をみているときの、睡眠時みたいではないですか。(え?起きてても半分寝てるみたいなものだから?。うん。確かに…)。ともあれ。いいテンポで、それでいて、穏やかだけど決して退屈でも、寂しくもない時間。これは、きっと、どんな滋養のある健康食品よりも、たいせつなのかもしれません
ねぇ。つくづくおもいました。(いえ、健康食品だってほんとはちゃんと、ひとのこころを元気にする!立派な存在なんだって、ちゃんとおもっています。ただ、このオヘソ曲がり根性と、あまのじゃく性質がね、ついつい、ひとと違うことしてるほうが、かっこいいんだい!て思える気がしてるだけ。それもこれも、元気でいられるからこそ、言えることなんですよねm--m)。
ことばというのは、面白いもので…。いや、ことばというより、それも含めた感覚ですかねぇ。これを言うと相手が、不愉快ではないか。あえて言わないほうがいいのではないか、とおもうことが、もちろんその通りの場合もあるし、言っても不愉快どころか、かえって爽快!ちゃんと言ってくれる方がずっと嬉しいのよ~って、こともたくさんある。もちろん、口はなんとか、というくらいだから、言いすぎがいいということはないのでしょうが、たぶん、そこにある気持ち(というか、そのときどきのほんとのおもい、まぁ、特別どちらでもそれほど気にならないものまで含めて…)は、確かにそこにあるわけで。もちろん、言い方ひとつで、勘違いの素やうっかり刃に、なってしまうときも確かにあるけど、少なくとも、互いが空気を感じられるほどに打ち解けている場合には、たぶん、そうでない場合と比べて、言葉の発露が及ぼす効果(おっといきなり小難しい表現だぞ)は、むしろ、逆の場合もあるのかも。これも、自分ならそうする。自分ならそうされたら嬉しいから…という感覚で
、ひとはなにかを選んでいるものだろうから…。場合によっては、その感覚が全く違ったりもし…。だから、共感できたり、見えないやさしさを互いがわかりあえたりしたら、より嬉しかったり、あったかい気持ちになれたりするんだろな。まぁ、とりあえず、言ってみる、これが世のおばちゃんたちで、とりあえず、黙っとく、これが…賢明なおじさんたち?なのですかねぇ。ともあれ、ことばを吐き出す(ことばに何かをもってってもらう)のは、たぶん、とてもたいせつなんだろな(だから、世のおばちゃんたちはあんなに元気?なのかもねぇ)。
異国の友達の両親がなくなったという知らせをもらった。その国のことばにいささか不案内のせいもあって、しばらく、そのポートレートカードが、天国からのメッセージだと気が付かなかった。恐らく、誕生日とおもわれる、日付のよこに、ほぼ同じような最近の日付が…。それに気付いて、ほんの数分…。なんてことだ、と愕然とした。生まれた日付の横に、もうひとつあるとしたらそれは…。そして、さらに驚かされたのは、たった4日しか違わない、日付…。53年いっしょにいて、わずか4日違いで旅立つなんて…。2度会ったことがある。1度目は20年近く前。まだ若くて、わたしがお好み焼き(あれ?肉じゃがだったかな)をつくる風景を撮ってくれた写真がある。2度目は10年くらい前だったか。一緒にカードゲームをして、午後のお茶を一緒にして…。ほんの短い滞在だったし、互いに言葉はほとんど通じないのに…、あったかい雰囲気の伝わる、時間だった。ひとは、必ずみんなゆくのだから、決して悪いことだけじゃない。知らせをくれたその友達も、家族が一緒に見送
れるタイミングでとてもよかったと…。うう。ものすごくわかるが、やっぱり、知っている人がいってしまったという知らせに触れると、やっぱり、少しこころがなみうつ。ひとのよは、はかない。そんなことばをおもいだす。元気にあふれて、前だけみているときは、そんなこと、つゆほどもおもいださないのにね。まぁ、きっと、生きてる間に出逢う、そんなたくさんのことごとに、ひとは、いろんなことをおそわって、少しずつ若さだけではない(たいせつな)なにか、を、もらっていくのかなぁ。なんてね。
ねぇ。つくづくおもいました。(いえ、健康食品だってほんとはちゃんと、ひとのこころを元気にする!立派な存在なんだって、ちゃんとおもっています。ただ、このオヘソ曲がり根性と、あまのじゃく性質がね、ついつい、ひとと違うことしてるほうが、かっこいいんだい!て思える気がしてるだけ。それもこれも、元気でいられるからこそ、言えることなんですよねm--m)。
ことばというのは、面白いもので…。いや、ことばというより、それも含めた感覚ですかねぇ。これを言うと相手が、不愉快ではないか。あえて言わないほうがいいのではないか、とおもうことが、もちろんその通りの場合もあるし、言っても不愉快どころか、かえって爽快!ちゃんと言ってくれる方がずっと嬉しいのよ~って、こともたくさんある。もちろん、口はなんとか、というくらいだから、言いすぎがいいということはないのでしょうが、たぶん、そこにある気持ち(というか、そのときどきのほんとのおもい、まぁ、特別どちらでもそれほど気にならないものまで含めて…)は、確かにそこにあるわけで。もちろん、言い方ひとつで、勘違いの素やうっかり刃に、なってしまうときも確かにあるけど、少なくとも、互いが空気を感じられるほどに打ち解けている場合には、たぶん、そうでない場合と比べて、言葉の発露が及ぼす効果(おっといきなり小難しい表現だぞ)は、むしろ、逆の場合もあるのかも。これも、自分ならそうする。自分ならそうされたら嬉しいから…という感覚で
、ひとはなにかを選んでいるものだろうから…。場合によっては、その感覚が全く違ったりもし…。だから、共感できたり、見えないやさしさを互いがわかりあえたりしたら、より嬉しかったり、あったかい気持ちになれたりするんだろな。まぁ、とりあえず、言ってみる、これが世のおばちゃんたちで、とりあえず、黙っとく、これが…賢明なおじさんたち?なのですかねぇ。ともあれ、ことばを吐き出す(ことばに何かをもってってもらう)のは、たぶん、とてもたいせつなんだろな(だから、世のおばちゃんたちはあんなに元気?なのかもねぇ)。
異国の友達の両親がなくなったという知らせをもらった。その国のことばにいささか不案内のせいもあって、しばらく、そのポートレートカードが、天国からのメッセージだと気が付かなかった。恐らく、誕生日とおもわれる、日付のよこに、ほぼ同じような最近の日付が…。それに気付いて、ほんの数分…。なんてことだ、と愕然とした。生まれた日付の横に、もうひとつあるとしたらそれは…。そして、さらに驚かされたのは、たった4日しか違わない、日付…。53年いっしょにいて、わずか4日違いで旅立つなんて…。2度会ったことがある。1度目は20年近く前。まだ若くて、わたしがお好み焼き(あれ?肉じゃがだったかな)をつくる風景を撮ってくれた写真がある。2度目は10年くらい前だったか。一緒にカードゲームをして、午後のお茶を一緒にして…。ほんの短い滞在だったし、互いに言葉はほとんど通じないのに…、あったかい雰囲気の伝わる、時間だった。ひとは、必ずみんなゆくのだから、決して悪いことだけじゃない。知らせをくれたその友達も、家族が一緒に見送
れるタイミングでとてもよかったと…。うう。ものすごくわかるが、やっぱり、知っている人がいってしまったという知らせに触れると、やっぱり、少しこころがなみうつ。ひとのよは、はかない。そんなことばをおもいだす。元気にあふれて、前だけみているときは、そんなこと、つゆほどもおもいださないのにね。まぁ、きっと、生きてる間に出逢う、そんなたくさんのことごとに、ひとは、いろんなことをおそわって、少しずつ若さだけではない(たいせつな)なにか、を、もらっていくのかなぁ。なんてね。