流れというものについて、ときどき考える。流れといっても、モルダウ~のような大きな河から、大河の最初の一滴、ちいさな小川のせせらぎまで…。いいときも、そうでないときも、それはいつもそこにあるのだろうけれど…。気持ちよく意識できるときもあれば、もどかしく、どうしようもない気持ちになっているときもある。それに、もしかすると、いいときというのは、そこにあるのが当たり前のようになっていて、実はちゃんと気づいていなかったりもするようだ。滞ったり、思い通りに進まなくなってはじめて、それまでの順調に気付かされて、愕然とするような…(ことも少なくない)。もっとも、そんなことを意識する暇もなく、前を見てなにかに夢中になっているとき…。そんなときが、いちばん充実しているのだろう。次にやって来る流れを恐れてばかりでもいけないけれど、流れを読むのは、ときどきとても大事…、なことなのかもしれない。しんどいときほど、冷静と根気がとても必要になるように…。
おっと、いつもと違う場所でキーボードを叩いているせいか、ちょっと、調子が出ない。ディスプレイの向きも関係あるのかなぁ。ともあれ。このまえ、感心したのは、50代になってから、独学で車の設計を学んで、自力で会社を興した?おじいさん。いまも80代で現役。夜の読書は欠かさないとか…。やりたいことを、いつまでもとっておかないで、着手する。実践する。これが、できるひととそうでないひとは、何が違うのだろう?「よし、いまだ!」という流れのタイミングの気付きなのかなぁ。いつか、いつか…。そうおもってばかりのわたしだ。不惑までは、迷っててもいいんだい!、なんていっていたら、おやまぁ…。あと20年。人生60からってことにしようかなぁ、なあんて、養老さんのいつかのエッセイを思い出してみたり…。まぁ、なにごとも、焦ってもしかたないし。(ほら、もう、後回しの論法になっている…)。のんびり、なるたけ目立たず時を送りたいおもいと、やっぱり、いつかは、何かを書きたいおもいと…。(こんな風な、のんびり気性では、だめですね
ぇ)。
子どもの頃、とにかく、ひとりになるのがだめで、わずかの間でもひとりになると、すぐ泣きべそかいてた。確か、ひとりで数時間の留守番をできるようになったのも、小学校にあがってから、それもやっと…ではなかったっけ。いつだったか、我が家から直線にしたら、ドライバーだと優に超えていくくらい、たぶん5番アイアンほどもないくらいのところ…、集落の中ほどにあるポストのあるところまで、ひとりで封書を入れに行くか…、それとも母が行って来るまでひとりで家で待っているか…。二者択一を迫られたことがある。5歳ぐらいだったのかなぁ。悩みに悩んで、結局後者を選んだ。たぶん、思うに、仮に、母がわざとゆっくり行ったとしても、せいぜい5分か10分だ。あのときの、時間が死ぬほど長かった。ほとんど泣いてたもんね。玄関で。心細くて…。今思うと、たったその程度でなんで、あんなに悲しかったのだろうってね。このまえ、ドラマの中から聞こえてきた。さびしくない大人なんて、いるのだろうか?って。思わず、深くうなってしまった。そうだよなぁ…。
いつどこにいても、ひとはみな…、そうなのだろうなぁって。きっと、子どもも大人も変わらないのかもしれない…。ちょっと、程度が違うだけで…。
ひさびさに、ちょっといいドラマを観た。後編だったようだが、思わず、トイレも我慢して最後まで観ていた…。父と息子の、想いの交錯やぶつかりあいが、とても素敵で、引き込まれた。いつか、わたしの胸を震わせた、『男たちの旅路』ほどではなかったけれど…。都会に旅立つ息子を、息子の乗る列車を、自転車で必死で追いかけ…、息子を見送る父と、窓から息子が父に必死で呼びかけるシーン。まぶたが熱くなった。いいなぁ。あんなふうに、不器用に、でも、心底心配しあっている親子…。わたしには、きょううだいがないけれど、(だから、いたら、いったいどんなふうなのかなぁって、これはこどものころからいつもおもうことだったけれど…)それでも、家族をおもう気持ちは、わかるつもり…。あんなふうに、心配しあえるって、ほんとにほんとにかげがえのないものなのだなぁ…。やっぱり、ひとは、守りたいもの、支えたいもの、そんなのがあってはじめて、きっと…、生きるちからというか…、何かをやりたい気持ちが、うまれるのかもしれない。ともあれ、安全に。気
をつけて…m--m。
おっと、いつもと違う場所でキーボードを叩いているせいか、ちょっと、調子が出ない。ディスプレイの向きも関係あるのかなぁ。ともあれ。このまえ、感心したのは、50代になってから、独学で車の設計を学んで、自力で会社を興した?おじいさん。いまも80代で現役。夜の読書は欠かさないとか…。やりたいことを、いつまでもとっておかないで、着手する。実践する。これが、できるひととそうでないひとは、何が違うのだろう?「よし、いまだ!」という流れのタイミングの気付きなのかなぁ。いつか、いつか…。そうおもってばかりのわたしだ。不惑までは、迷っててもいいんだい!、なんていっていたら、おやまぁ…。あと20年。人生60からってことにしようかなぁ、なあんて、養老さんのいつかのエッセイを思い出してみたり…。まぁ、なにごとも、焦ってもしかたないし。(ほら、もう、後回しの論法になっている…)。のんびり、なるたけ目立たず時を送りたいおもいと、やっぱり、いつかは、何かを書きたいおもいと…。(こんな風な、のんびり気性では、だめですね
ぇ)。
子どもの頃、とにかく、ひとりになるのがだめで、わずかの間でもひとりになると、すぐ泣きべそかいてた。確か、ひとりで数時間の留守番をできるようになったのも、小学校にあがってから、それもやっと…ではなかったっけ。いつだったか、我が家から直線にしたら、ドライバーだと優に超えていくくらい、たぶん5番アイアンほどもないくらいのところ…、集落の中ほどにあるポストのあるところまで、ひとりで封書を入れに行くか…、それとも母が行って来るまでひとりで家で待っているか…。二者択一を迫られたことがある。5歳ぐらいだったのかなぁ。悩みに悩んで、結局後者を選んだ。たぶん、思うに、仮に、母がわざとゆっくり行ったとしても、せいぜい5分か10分だ。あのときの、時間が死ぬほど長かった。ほとんど泣いてたもんね。玄関で。心細くて…。今思うと、たったその程度でなんで、あんなに悲しかったのだろうってね。このまえ、ドラマの中から聞こえてきた。さびしくない大人なんて、いるのだろうか?って。思わず、深くうなってしまった。そうだよなぁ…。
いつどこにいても、ひとはみな…、そうなのだろうなぁって。きっと、子どもも大人も変わらないのかもしれない…。ちょっと、程度が違うだけで…。
ひさびさに、ちょっといいドラマを観た。後編だったようだが、思わず、トイレも我慢して最後まで観ていた…。父と息子の、想いの交錯やぶつかりあいが、とても素敵で、引き込まれた。いつか、わたしの胸を震わせた、『男たちの旅路』ほどではなかったけれど…。都会に旅立つ息子を、息子の乗る列車を、自転車で必死で追いかけ…、息子を見送る父と、窓から息子が父に必死で呼びかけるシーン。まぶたが熱くなった。いいなぁ。あんなふうに、不器用に、でも、心底心配しあっている親子…。わたしには、きょううだいがないけれど、(だから、いたら、いったいどんなふうなのかなぁって、これはこどものころからいつもおもうことだったけれど…)それでも、家族をおもう気持ちは、わかるつもり…。あんなふうに、心配しあえるって、ほんとにほんとにかげがえのないものなのだなぁ…。やっぱり、ひとは、守りたいもの、支えたいもの、そんなのがあってはじめて、きっと…、生きるちからというか…、何かをやりたい気持ちが、うまれるのかもしれない。ともあれ、安全に。気
をつけて…m--m。