ところで。そうです。距離感というものについて。これは、たぶん、センスというか、行間への思慮というか…、たぶん、おおげさにいうと、そのひとの、ひととなり全部が集約されているもののようでして…。いつかも書いたけど。言ってわかるひとには、言わなくてもわかるし、言わないとわからんやつは、言ってもわからん!(という、実に素晴らしい名言があるのだけど)。つまり、ことばというのは、たしかにそこに言っている、事柄内容であるのだけれど。同時にそれだけでなく…。なんでしょうね。強弱、緩急…、あるいは、あえてわざとのイレギュラー、そして遊び心…。あえて、ことばにしない優しさも含めての、空気ぜんぶといってもいいもの(のような気がします)。だから、通じるひとと一緒にいると、どこまでも安心できる気がするし、仮にもし、違う点があったとしても、それはそれで、新たな発見、いい刺激…というふうになる。ところが、こりゃあかん!とおもうのは、あれ、なんだべね。ともあれ、こころのドアの大きさの違い?それとも、ひととの絶妙な距離
感が、まったく違うせい?たとえば、ただ、束縛したり、土足でどこまでも入り込むことが親しみと勘違いしているような…。そもそも。そういう、土台の違いはどこが出発点?なんでしょうねぇ。
いまとなっては、とてもひとことではあらわせない感覚だけれども。わが母にしても…。それだけは、決して言葉にしては、相手の心にしぬまでつきささる棘になる!、というようなことを平気で?口にするひとだった。そのことと、いまの状態に関係があるかないかはわからぬけれど…。少なくとも、本人は(そりゃあ、しんどいこともあったのだろうが)、こちらからみると、それはそれで、自然(の姿を)貫けて、つまり、よくあるひとつの衰え方ができて…(もし、語弊があったらすみません)、よかったのではないかと、ともおもえる。だが、かつては、おもった。いつも、わたしにとって、しがらみの象徴のような存在で、ど~しても、ほんとうにしたいこと(ほんとにそれがあったかどうかは、いまとなっては定かじゃないけど、少なくとも当時は)を、いつも、できないでいたような…(まぁ、よくある、若者の、自分の勇気がないのを棚に上げて、ひとのせいにする~、というやつのような気もしますが)。むろん、いまとなっては、おかげで、先祖を敬うことの大切さに少しだ
け早く気付けたきもするし…(でも、まだ、どこかで、そのためだけに、少なくとも空間的持続的にしばられることには抵抗を隠しきれないのだが…)。運命や、さだめということばを、持ち出すと、俄然、大袈裟で深刻なもののような感じになるけど。たぶん、まだ、わたし自身、ちゃんと気づけていないことや、まだちゃんとわかることができていないこともあるのやもしれない。
あれ?距離感の話でしたよねぇ。そうそう。あるとき、親しい友人の家で、たまたま同席した彼女の幼馴染という同い年の子がいたのだが。たとえば、わたしの年来の海外の友人の連絡先をパソコンで調べてもらっているとき、それとなく(いや、とてもわかりやすく)ささやかな邪魔をしたり…、あるいは、食卓の上のみんなでとりあうお皿にわたしが箸を伸ばすと(「それはダメ~」と、無言の空気で言ってきたり…)まぁ、よくある!?タイプな子だったのだが。わたしにすれば、おやおや、なんとまぁ、わかりやすいひと!とおもったにすぎない。それが、どういう風の吹き回しか、あるとき、突然、何の前触れもなく、まるで、年来の親友のような文面で電子書簡を送ってきた。その余りのギャップにこちらは、完全に返信の意思は吹き飛んだ。たとえば、そいうことなのでしょうね。距離感って。あるとき、ひとがすきかと訊かれたとき…、ことばを変えて、嫌いな人はいるのかと訊かれたのだが。そんなときおもうのは、意味もわからず、理由も理解困難で、いきなり棘のある弓
や矢を!?放ってこられたら、そりゃ、防御や敬遠はするでしょうが、こちらから、嫌いとおもうことはないような…(なあんて、この好き嫌いのはっきりしてるわたしが言ってもあまり説得力がないでしょうか?)。そう。たとえば、コンビニや書店の狭い通路で姑息なうごきをするものは、嫌い以前の(ひととしての)論外だし。つまりは、居心地のよさ、あるいは、ことば(や気持ちが)通じる安堵感、信頼感というようなものは…、たぶん、距離感なのでしょうかねぇ。
ただ。生物学的に!いざというときに、NOが言えないと身の安全にもかかわる頻度の多い!?メス(いまは、いわゆるおばちゃんという意味ですが)にすれば、ときどき、ちょっと、わがままと知りつつおもうのだ。NOは、なるたけ早めに伝えるのがやさしさなのでは…?と。なぜなら、NOがYESに変更になるのは、ちっとも構わないし(むろん、Yesが相手にとって好ましいことを意味するときですが)、だから、Yesが多少遅れるのはいいとしても…、NOは遅くなるほど、相手をちょっとだけせつなくさせる…と解釈するのは、多岐的視野に欠けるおばちゃんのたわごとですかねぇ。たしかに、直前までわからない場合、保留がいちばんいいのは確かだし。だから、仕方ない…、おそらく、自分が逆の立場なら、きっと、同じようにするだろな…っていうのは、わかるのになぁ。ときどき、ちょっとだけ、そんなジレンマをおもってしまう。もちろん、そういうのも、ひっくるめて、ひとがひとのことを想う…、というのは、とてもありがたく素敵なことには違いないのにね
ぇ。たぶん、おもってるポイントがちょっと違うだけで、ことばにしちゃえば、なあんだそういうことか~ぁ、ってことを、ごくたまに、あれこれ、考えあぐねてこころが少しだけ捩れることがある…、のかも、しれませんねぇ。もっとも、その前に!、おしゃべりの止むことのないメスと、そうでないオスとの、ことば(にすること)への距離感!の違いに、おもいをもっと、めぐらせないといかんのでしょうねぇ。m(__)m
感が、まったく違うせい?たとえば、ただ、束縛したり、土足でどこまでも入り込むことが親しみと勘違いしているような…。そもそも。そういう、土台の違いはどこが出発点?なんでしょうねぇ。
いまとなっては、とてもひとことではあらわせない感覚だけれども。わが母にしても…。それだけは、決して言葉にしては、相手の心にしぬまでつきささる棘になる!、というようなことを平気で?口にするひとだった。そのことと、いまの状態に関係があるかないかはわからぬけれど…。少なくとも、本人は(そりゃあ、しんどいこともあったのだろうが)、こちらからみると、それはそれで、自然(の姿を)貫けて、つまり、よくあるひとつの衰え方ができて…(もし、語弊があったらすみません)、よかったのではないかと、ともおもえる。だが、かつては、おもった。いつも、わたしにとって、しがらみの象徴のような存在で、ど~しても、ほんとうにしたいこと(ほんとにそれがあったかどうかは、いまとなっては定かじゃないけど、少なくとも当時は)を、いつも、できないでいたような…(まぁ、よくある、若者の、自分の勇気がないのを棚に上げて、ひとのせいにする~、というやつのような気もしますが)。むろん、いまとなっては、おかげで、先祖を敬うことの大切さに少しだ
け早く気付けたきもするし…(でも、まだ、どこかで、そのためだけに、少なくとも空間的持続的にしばられることには抵抗を隠しきれないのだが…)。運命や、さだめということばを、持ち出すと、俄然、大袈裟で深刻なもののような感じになるけど。たぶん、まだ、わたし自身、ちゃんと気づけていないことや、まだちゃんとわかることができていないこともあるのやもしれない。
あれ?距離感の話でしたよねぇ。そうそう。あるとき、親しい友人の家で、たまたま同席した彼女の幼馴染という同い年の子がいたのだが。たとえば、わたしの年来の海外の友人の連絡先をパソコンで調べてもらっているとき、それとなく(いや、とてもわかりやすく)ささやかな邪魔をしたり…、あるいは、食卓の上のみんなでとりあうお皿にわたしが箸を伸ばすと(「それはダメ~」と、無言の空気で言ってきたり…)まぁ、よくある!?タイプな子だったのだが。わたしにすれば、おやおや、なんとまぁ、わかりやすいひと!とおもったにすぎない。それが、どういう風の吹き回しか、あるとき、突然、何の前触れもなく、まるで、年来の親友のような文面で電子書簡を送ってきた。その余りのギャップにこちらは、完全に返信の意思は吹き飛んだ。たとえば、そいうことなのでしょうね。距離感って。あるとき、ひとがすきかと訊かれたとき…、ことばを変えて、嫌いな人はいるのかと訊かれたのだが。そんなときおもうのは、意味もわからず、理由も理解困難で、いきなり棘のある弓
や矢を!?放ってこられたら、そりゃ、防御や敬遠はするでしょうが、こちらから、嫌いとおもうことはないような…(なあんて、この好き嫌いのはっきりしてるわたしが言ってもあまり説得力がないでしょうか?)。そう。たとえば、コンビニや書店の狭い通路で姑息なうごきをするものは、嫌い以前の(ひととしての)論外だし。つまりは、居心地のよさ、あるいは、ことば(や気持ちが)通じる安堵感、信頼感というようなものは…、たぶん、距離感なのでしょうかねぇ。
ただ。生物学的に!いざというときに、NOが言えないと身の安全にもかかわる頻度の多い!?メス(いまは、いわゆるおばちゃんという意味ですが)にすれば、ときどき、ちょっと、わがままと知りつつおもうのだ。NOは、なるたけ早めに伝えるのがやさしさなのでは…?と。なぜなら、NOがYESに変更になるのは、ちっとも構わないし(むろん、Yesが相手にとって好ましいことを意味するときですが)、だから、Yesが多少遅れるのはいいとしても…、NOは遅くなるほど、相手をちょっとだけせつなくさせる…と解釈するのは、多岐的視野に欠けるおばちゃんのたわごとですかねぇ。たしかに、直前までわからない場合、保留がいちばんいいのは確かだし。だから、仕方ない…、おそらく、自分が逆の立場なら、きっと、同じようにするだろな…っていうのは、わかるのになぁ。ときどき、ちょっとだけ、そんなジレンマをおもってしまう。もちろん、そういうのも、ひっくるめて、ひとがひとのことを想う…、というのは、とてもありがたく素敵なことには違いないのにね
ぇ。たぶん、おもってるポイントがちょっと違うだけで、ことばにしちゃえば、なあんだそういうことか~ぁ、ってことを、ごくたまに、あれこれ、考えあぐねてこころが少しだけ捩れることがある…、のかも、しれませんねぇ。もっとも、その前に!、おしゃべりの止むことのないメスと、そうでないオスとの、ことば(にすること)への距離感!の違いに、おもいをもっと、めぐらせないといかんのでしょうねぇ。m(__)m