これを書いている窓の、目の前に、大きく成長した金木犀が、満開の花を枝いっぱいにつけています。少し前までは、表の通りにまでこぼれるほどの、鼻孔をくすぐる魅惑的な匂いを放っていました。自然は、やっぱり凄いです。気持ちがいい、と感じるのも、たぶん理屈ではなく、それがまさに自然であるから。なのかもしれません。もちろん、現実の時間のなかでは、そんな素敵な時空間に酔いしれるだけにも、いきませんが。だからこそ、そんな、目の前にある素晴らしさに気付いたり、ふわふわっと、満喫できたりする(こころの)ゆとりに感謝したいな。そう、おもいます。もちろん、これは、とりあえず、呑気者になれる、おんなの感想(言い分)なのだけど…。ふう。なにはともあれ、流れに逆らわないのがうまくできるようになるにも、やっぱり最初はサーフィン(波乗り)の練習がいるのは確かで…。はたからみて、かっこよく自在に波にのっているように見える人は、きっとみんな、いつでも荒海に叩きつけられる覚悟をしているから、かっこいいのかなぁ^^;。(
ごめんなさい。なんだか、やっぱり調子に乗りすぎてるかも…。雄弁も過ぎたるは、鬱陶しいだけですねm--m)。
ついこの前まで、半そででも暑いほどでなかったでしたっけ?こんどは、一気に毛糸のパンツ!と帽子が欲しくなるほどの、朝の冷え込みです。これじゃあ、大好きな秋がちょっと、冬にまけちゃってるみたいで、少しさびしい。そういえば、金木犀のあるところは、かつて、晴れ着や、初めての剣道着をわたしに着せて、父がわたしの写真を撮っていた場所…。父のお気に入りの場所だったのだろうか。子どもの頃の思い出があるのだろうか。庭の中で、気の流れのいい場所なんだろうか。男の人は、ことばが少ないから…。だから、いいのかな。おんなの想像力をこうやって…。そして、いろんな風に解釈できたり、いろんなときに思い返しては記憶の中に小旅行させてもらえたり…。つまりは、余韻というか、余白を多くののこしてくれる…、とってもおおきな優しさ。なのかなぁ。ときに、おんなみたいに、あれこれあれこれ、「え?そんなことわたし言った?」みたいな、湯水のような、まるで、空気の一部みたいな使い方も、これ、時に考えものだと、われながら、思いますが。だから
、なるたけ、気持ちを込めて使いたいと、いつもおもってはいるのですけどね。どちらにとっても、ことばがひとつの癒しであって、あわせて、きもちを乗せてはこぶ大事な羽!だったりするのでしょうか。
栗をですねぇ。栗を捕りにいかんといけんとなんです。庭の森!ですが。このまどからでも、30数ヤード?ほどなのですが…。これだけ寒いと、もう蚊の嵐もないというのに…。きがつけば、毬がたくさんついていました。そういえば、その栗の根元の周りには、わたしの大好物のミョウガさんがたくさん、生えているはずです。うう。手を伸ばせば、すぐそばにあるというのに…。この遠慮深さというか、億劫さはなんでしょう。自分でも、少しふがいないです。もちろん、自然につく、実は、自然のもので、ひとが食べるためだけにあるのではないのですから、それはそれでいいのですけれど。もったいないというのとは違うんですねぇ。それはそれでいい。ただ、そこにあるのに、足を踏み出さない自分の臆病に、少しだけ微妙に(私自身の)弱さを実感してしまいます。まぁ、来年もあることだし!そのまた次も!^^;。そのときそのとき、時の流れ、縁の強弱もひとつの流れのなかに、自然とある!ものなのかもしれないし。
それはそうと。栗を捕りにいく光景をおもうたびに、重なるのが彼と過ごしたらすとの秋…。昼頃起きだしたわたしが、ずぼらな恰好のまま、彼の寝床の前を通り過ぎ…、枯葉を踏む音をたてると、ぬくっと背をのばした彼のなんともいえない顔。あたまにこびりついて離れません。「ねぇ、ちょっとぉ。え?やっと起きたんでしょ。なのに、なんで、俺より先にそっちなの?こんなに待ってたんだよ(まぁ、ちょっとは寝てたけど)。まず、俺と散歩でしょ。それに、すぐに抱きしめてよ。なんで、畑の方に先にいっちゃうのさ…」なあんて、まるでそんな声が聞こえてくるような、なんとも、趣と気持ちのいっぱいつまった表情を顔いっぱいに浮かべて、こっちを見つめてくるその瞳。うう。彼がくれた時間は、そのまま、彼がわたしにくれた愛(気持ち)そのものだったのかもしれませんねぇ。わたしが彼をどんなに好きだったか。たぶん彼もわたしを…。そう、おもうと…。ああ、涙が溢れてきてしまいました…。
ごめんなさい。なんだか、やっぱり調子に乗りすぎてるかも…。雄弁も過ぎたるは、鬱陶しいだけですねm--m)。
ついこの前まで、半そででも暑いほどでなかったでしたっけ?こんどは、一気に毛糸のパンツ!と帽子が欲しくなるほどの、朝の冷え込みです。これじゃあ、大好きな秋がちょっと、冬にまけちゃってるみたいで、少しさびしい。そういえば、金木犀のあるところは、かつて、晴れ着や、初めての剣道着をわたしに着せて、父がわたしの写真を撮っていた場所…。父のお気に入りの場所だったのだろうか。子どもの頃の思い出があるのだろうか。庭の中で、気の流れのいい場所なんだろうか。男の人は、ことばが少ないから…。だから、いいのかな。おんなの想像力をこうやって…。そして、いろんな風に解釈できたり、いろんなときに思い返しては記憶の中に小旅行させてもらえたり…。つまりは、余韻というか、余白を多くののこしてくれる…、とってもおおきな優しさ。なのかなぁ。ときに、おんなみたいに、あれこれあれこれ、「え?そんなことわたし言った?」みたいな、湯水のような、まるで、空気の一部みたいな使い方も、これ、時に考えものだと、われながら、思いますが。だから
、なるたけ、気持ちを込めて使いたいと、いつもおもってはいるのですけどね。どちらにとっても、ことばがひとつの癒しであって、あわせて、きもちを乗せてはこぶ大事な羽!だったりするのでしょうか。
栗をですねぇ。栗を捕りにいかんといけんとなんです。庭の森!ですが。このまどからでも、30数ヤード?ほどなのですが…。これだけ寒いと、もう蚊の嵐もないというのに…。きがつけば、毬がたくさんついていました。そういえば、その栗の根元の周りには、わたしの大好物のミョウガさんがたくさん、生えているはずです。うう。手を伸ばせば、すぐそばにあるというのに…。この遠慮深さというか、億劫さはなんでしょう。自分でも、少しふがいないです。もちろん、自然につく、実は、自然のもので、ひとが食べるためだけにあるのではないのですから、それはそれでいいのですけれど。もったいないというのとは違うんですねぇ。それはそれでいい。ただ、そこにあるのに、足を踏み出さない自分の臆病に、少しだけ微妙に(私自身の)弱さを実感してしまいます。まぁ、来年もあることだし!そのまた次も!^^;。そのときそのとき、時の流れ、縁の強弱もひとつの流れのなかに、自然とある!ものなのかもしれないし。
それはそうと。栗を捕りにいく光景をおもうたびに、重なるのが彼と過ごしたらすとの秋…。昼頃起きだしたわたしが、ずぼらな恰好のまま、彼の寝床の前を通り過ぎ…、枯葉を踏む音をたてると、ぬくっと背をのばした彼のなんともいえない顔。あたまにこびりついて離れません。「ねぇ、ちょっとぉ。え?やっと起きたんでしょ。なのに、なんで、俺より先にそっちなの?こんなに待ってたんだよ(まぁ、ちょっとは寝てたけど)。まず、俺と散歩でしょ。それに、すぐに抱きしめてよ。なんで、畑の方に先にいっちゃうのさ…」なあんて、まるでそんな声が聞こえてくるような、なんとも、趣と気持ちのいっぱいつまった表情を顔いっぱいに浮かべて、こっちを見つめてくるその瞳。うう。彼がくれた時間は、そのまま、彼がわたしにくれた愛(気持ち)そのものだったのかもしれませんねぇ。わたしが彼をどんなに好きだったか。たぶん彼もわたしを…。そう、おもうと…。ああ、涙が溢れてきてしまいました…。