想定外の展開というのは、ときどきやってくる。なんだかな。思いがけずの取材を受けて…。なにはともあれ。ひとと話す…、というのは、やはり、いろいろな意味でとても意義深いというか、大切というか、あらためて、自分のおもいを自分で再確認できるチャンスとなる…、というか。おそらく、たぶん、自分のあたまがおもったり考えたりしたことを、自分の声を通して自分の耳で聞いて…、そんな当たり前で単純だけれども、そういうシンプルなことこそが、いろいろな意味でたいせつなのだろうな、と、改めておもった。もちろん、こうして書くというのもひとつの、整理法というか…、復習兼予習!?というか…。ときどき、自分でも、話しながら、「おや?わたしいまそんなこと考えたんだぁ~?」って、自分で自分の話してる内容に感心!?してるときもあったりする…ような…。つまり、声が先が思考が先か…って、ことだろうか?あんまり言うと、変人になっても困るので。ともあれ、そんなこと。
そういえば、この前、旅先から自分に送った荷物が届いたとき、ちょうどかけていたオーディオから、「あなたに~あげたい~愛がある~」のフレーズ…^^;が。ブルーと白のユニフォームを着たお兄さんの、空気がふわ~っと、柔らかくなって(しまった)のは言うまでもなく…。まぁ、もちろん、ただの偶然なのだけれども…。ちょうど着払いだったこともあって、しばし、暑いのきょうは少し涼しいの…の、会話のあいだも、こころなしかいつもよりリラックスモード。まぁ、些細なエピソードのひとつにすぎませんが、音楽がひとのこころをほどく…、というか、柔らかくすることだけは、間違いがないようです。そして、やっぱり唄うひとの声でしょうかねぇ。どうして、あ~も、声(の音質)で、伝わり方が違うのでしょうかねぇ。改めて、不思議です。
思うに、ひとがストレスを感じる(受ける)のは、自分自身へのそれ(たとえば期待…)も含めて、だれかをこんな風に、あんな風にしよう(動かそう)とするとき。たとえば、自分の力量以上の結果を常に思い描いて、クラブを振ればその都度、「こんなはずでは…、こんなはずでは…」となって、結局、面白さを感じる暇がなくなるのと同じように…。だれかを、思い通りにしようとした途端、そこの空気は一気に難しくなってしまう(のだろう)。だからといって、いつでもなんでも相手次第…、の受け身(ばかりの人間ばかりでも困ってしまうし…)。最初に、それをはたを思ったのは、大学時代。9歳下の(つまり小学6年の)男の子の家庭教師を引き受けたとき。そうはいってもなぜか、一人っ子どおしで分かり合えるところも多く、結局彼が中三になるまでみていたのだけれど…。そのとき感じたのは、ひとに勉強させるよりも、自分がしたほうがずっとずっとらくだということ(だった)。そして、去年。家族との(闘争?)を経て、やっぱりそう思った。相手を、ほんの小さなこ
とでも(いえ、むしろ小さなことだからこそだろうか)、思い通りにしようとした途端、双方の(こころの)爆弾が破裂ばかり…。ほんとに大変だった。でも、まぁ、思えば、それがあるから、いま、なんとかかんとか、少しばかりの(こころの)ゆとりを持って、いられるのかも、しれない。(と、ふと思います。)ともあれ。また、もうしばらくで…、再び“たいへん”さんが。帰ってくるのだけれど…^^;。(ふ~。やれやれ…^^;)。「まぁ、いいか。よし、(たいへんも)引き受けましょう!」って、思えるのも、これ、ひとつの愛?なのでしょうかねぇ。
離れているというのは、ときに、楽で、こころに自然と柔らかい思いやりや心配を思い描ける…。そんな一方で、ふと、心配のほうばかりが先立ってしまった場合に…、もし簡単に会えたならば、ものの数秒で、打ち解ける、分かり合える…はずのことが、なんだか、ひとりでにふくれてしまって…、ひたすら(自分のこころに)苦労ばかりをかけてしまうことが、あるもののようです。ほんとに、よく思います。どこでもドアならぬ、どこでも糸電話でもあればねぇ…って。もっとも、そもそも、ことばの使い方、伝え方が男女で(微妙に)食い違うのも…(これ、妙味といえば妙味なのだろうなとおもうけど…)、つまりは、ひたすらなもどかしさ…、にも、ときになるのかもしれません。なにしろ、とりわけおばちゃんのおしゃべりなるものは、その大半がいま吐いた空気!?みたいだったりするものだから…。要点をつかまえるのが、ほんとにたいへん…、ですねぇ。^^;。m--m。(それは、とてもよくわかります!)
そういえば、この前、旅先から自分に送った荷物が届いたとき、ちょうどかけていたオーディオから、「あなたに~あげたい~愛がある~」のフレーズ…^^;が。ブルーと白のユニフォームを着たお兄さんの、空気がふわ~っと、柔らかくなって(しまった)のは言うまでもなく…。まぁ、もちろん、ただの偶然なのだけれども…。ちょうど着払いだったこともあって、しばし、暑いのきょうは少し涼しいの…の、会話のあいだも、こころなしかいつもよりリラックスモード。まぁ、些細なエピソードのひとつにすぎませんが、音楽がひとのこころをほどく…、というか、柔らかくすることだけは、間違いがないようです。そして、やっぱり唄うひとの声でしょうかねぇ。どうして、あ~も、声(の音質)で、伝わり方が違うのでしょうかねぇ。改めて、不思議です。
思うに、ひとがストレスを感じる(受ける)のは、自分自身へのそれ(たとえば期待…)も含めて、だれかをこんな風に、あんな風にしよう(動かそう)とするとき。たとえば、自分の力量以上の結果を常に思い描いて、クラブを振ればその都度、「こんなはずでは…、こんなはずでは…」となって、結局、面白さを感じる暇がなくなるのと同じように…。だれかを、思い通りにしようとした途端、そこの空気は一気に難しくなってしまう(のだろう)。だからといって、いつでもなんでも相手次第…、の受け身(ばかりの人間ばかりでも困ってしまうし…)。最初に、それをはたを思ったのは、大学時代。9歳下の(つまり小学6年の)男の子の家庭教師を引き受けたとき。そうはいってもなぜか、一人っ子どおしで分かり合えるところも多く、結局彼が中三になるまでみていたのだけれど…。そのとき感じたのは、ひとに勉強させるよりも、自分がしたほうがずっとずっとらくだということ(だった)。そして、去年。家族との(闘争?)を経て、やっぱりそう思った。相手を、ほんの小さなこ
とでも(いえ、むしろ小さなことだからこそだろうか)、思い通りにしようとした途端、双方の(こころの)爆弾が破裂ばかり…。ほんとに大変だった。でも、まぁ、思えば、それがあるから、いま、なんとかかんとか、少しばかりの(こころの)ゆとりを持って、いられるのかも、しれない。(と、ふと思います。)ともあれ。また、もうしばらくで…、再び“たいへん”さんが。帰ってくるのだけれど…^^;。(ふ~。やれやれ…^^;)。「まぁ、いいか。よし、(たいへんも)引き受けましょう!」って、思えるのも、これ、ひとつの愛?なのでしょうかねぇ。
離れているというのは、ときに、楽で、こころに自然と柔らかい思いやりや心配を思い描ける…。そんな一方で、ふと、心配のほうばかりが先立ってしまった場合に…、もし簡単に会えたならば、ものの数秒で、打ち解ける、分かり合える…はずのことが、なんだか、ひとりでにふくれてしまって…、ひたすら(自分のこころに)苦労ばかりをかけてしまうことが、あるもののようです。ほんとに、よく思います。どこでもドアならぬ、どこでも糸電話でもあればねぇ…って。もっとも、そもそも、ことばの使い方、伝え方が男女で(微妙に)食い違うのも…(これ、妙味といえば妙味なのだろうなとおもうけど…)、つまりは、ひたすらなもどかしさ…、にも、ときになるのかもしれません。なにしろ、とりわけおばちゃんのおしゃべりなるものは、その大半がいま吐いた空気!?みたいだったりするものだから…。要点をつかまえるのが、ほんとにたいへん…、ですねぇ。^^;。m--m。(それは、とてもよくわかります!)