いちねんと数ヶ月ぶりに、みどりの図書館へ。お天道様と青々とした芝生、それに澄んだ空。こんな、開放的で、そして健康的な半日を、連日していた日があったなんて、信じられない。それぐらい、隔世の感がある。たくさんの紫外線を、いきなりあびて、たしかにいささか体中の細胞が驚いているけれども。ともあれ。カートにのって感じる風や、打ち終わったあとの、あの爽快感は、素晴らしい。ああ、こんな世界が、こんな時間があったのね。と、改めてしみじみ。それだけでも、十分にありがたい。なので、そんな感覚に少しでも同意してくれるひとと、半日、天然の図書館ならぬ、こころの体育館を、歩くことができたなら、さぞ、もっと愉しいに違いない。残念ながら、こんな風におもえるのは、たぶん、闘争本能や、競争心にかなり欠けるおんなのこだからなのかもしれない。かといって、おんなのひとだけで歩いても、ちっとも面白くないのはなぜだろう。会話ができない、というより、とぎれとぎれの会話では、女同士のコミュニケーションには用はなさず、同時に、結果にと
てもナーバスになってしまう。いや、結果ではないか。内容かな。ともあれ、そこにあらわれる人間性というか、飛んでいくものの軌道の美しさというか、まぁ、それらから感じるもの。ともあれ。とぎれとぎれでも、充分にウイットに富んだ会話が楽しめるのは、やはり男のひとだ(もっとも、会話どころでなくなる人もいるけれど。)。それが愉しいのだ。
かつての自分がまさにそうであったから、決して偉そうなことではいえないのだけど、どこかで数字を優先してまう段階(団塊?)がある。たしかに、ときどきあらわれる目の覚めるような冴えた数字は確かに誇らしくはあるけれど。それはあくまで結果。それをはなから目指してしまうと、できなくなることがあまりにたくさんある。やはり、たいせつなのは、プレイスタイルだし、構えの姿勢だし、そして、一球一球へのこめた気持ち。やきゅうでもそうだ。どんなにいい内容で投球しても、負けるときは負ける。反対に、ちっとも褒められた内容、あるいは球筋ではくても、運良く勝ってしまうことでもある。そこで、味を占め、勝ちだけを求めてしまうと、とたんに見えなくなるもの、できなくなること、があまりにも、たくさんある気がするのだ。じゃあ、どうすればいいのかって?それは、ひとりひとりが、考え試行錯誤してつかまないといけない感覚ではあるとおもう。ときどき、決してお世辞にも上手なスイング、綺麗なボール、とはいえない方でも、不思議とその綺麗なスタイル
(体型のことではありませんよ)が印象に残ることがあるし、反対に、どんなにまっすぐな球ばかりを打っている人がいても、ちっとも魅力的に映らない場合もある。なにが違うのでしょうねぇ。それらを、総じて、人格。ということなのでしょうか。厳しい指摘ですが、一方で救われるし、とてもありがたい提示でもある気がする。

その空間にいる、一瞬一瞬がありがたいのであり、非日常のかけがえのない充実であるはずなのに…。どうして、そんなに数字の良し悪しに汲汲と、苦苦と、してしまうのでしょうねぇ。もちろん、手を抜いてやるってことではありませんよ。遊びだからこそ、全力投球。妥協も、遠慮もしない。でも、ひとつひとつが、子どものとき、ずっと憬れていたものに、初めて挑戦するときのような、嬉々とした、そして、ワクワクした気持ちに包まれる。いいのがでたら、そりゃあスカッと素直に嬉しいし、そうでなくても、そうですかぁ。ちょっと、気合いが空回りでしたなぁ~、と、次回に期する。目の前のひとつひとつに集中する。その時の充実感、充足感…、なのでしょうねぇ。醍醐味は。言いたいこと、これで、うまく伝わっただろうか。それにしても、滅多にしないから余計ありがたいのだろうが、やっぱりうまい(のかもしれない)。わたしのこと。なんていうと、顰蹙ものだろうか。自分で自分の感覚との対話が、とても愉しい。この感覚を失わずして、競争という名の環境の中でも充
実感を見出せたなら…、それは立派なのだろうな。でも、正直、勝った負けたはあくまで結果なんだけどな。大事なことは、もっと違うところにある気がするのはわたしだけだろうか。う~ん。この感覚をうまくことばに乗せるのは、むずかしい。お陰で、背中のお肉はさっきから悲鳴をあげているけれど。なにもしていないのに、思いがけず、納得のいくボール打感がもてたことが、素直に嬉しかった。それにしても、どうして、男のひとは、飛距離が劣るとあんなに落胆するのでしょうか。こちらが、申し訳なくなってしまいます(でも、飛んでいくものはどうしようもなく…)。ちょっとだけ、こころがいたむのです。

じゃあまた、明日から毎日でも没頭したい?って言われたら、いやぁ~。そのありがたさがわかるほどに、間隔をおきたいというか、一回一回の重さを保っていたいというか…。なんだけど、そうはいうけど、愉しい時間であることに間違いはないのだ。それにしても、さいごの転がすステージでの、構えや、打つときのイメージ、距離感なんかが、ほかの打つのと、同じくらいに感覚に閃くもの、あるいは積み重ねた自信のようなもの、これが自分のかたち!と、いえるところがもし、見えたらば、それはそれは、愉しみや追及の確度、見えてくる本質の深度は、はるかに豊かなものになっちゃうのだろうな。なかなか、簡単ではないけれど。もっとも、簡単じゃないから、やりがいがある。とも、いえるわけで…。はて、困った。こくたいのせんしゅがたりないからどうか?なんて、言われてしまった。今のところ、固辞するつもりではいるけれど…。町の、子どもたちにボランティアで教える~って、のには、賛成だった。う~ん。時を経て、ふたたび、少し、近づいてみる時期にきているの
だろうかなぁ。う~む。もちろん、本題、本望とは別の次元の愉しみ(のひとつ)として…。(数字ではない何か…。これがわかると、見方が変わります。そして、一気に視界が広がる。とはいえ、そうするために、ときには、数字をしっかり出す!というのも、大事なのかな。)堂々巡りのようになってきちゃったので、とにかく、自然と芯のある姿勢は素晴らしい!、ということで…。(ああ、いっぱい動いてめっちゃ、疲れたよ~)。