家族というものについて考えてみる。冷静にみると、不思議でもあるけれども、そこはそれ。理屈ではとても割り切れない親愛の情がある。そして、窮地にあるときは、なんとしても守ってあげたいとおもう。むろん、ひとによって、その優先順位や、おもいの度合いは多少違うのかもしれない。こういう非常事態のときこそ、皮肉にも、そういう、平時にはとてもお目にかかれない、ひょっとしたら、各々ほんにんも自覚していなかったかもしれない、本質というか、人格というか、そのにんげんの芯のようなものが問われ、そして顔をだすのかもしれません。『ファイヤーウォール』のような、映画は確かに非日常的ではあるけれども、それでもあそこに投影されているのは、家族を守るために、孤軍奮闘、いくつもの理不尽と闘い、ときには自ら理不尽にまみえもしながら、それでも、家族だけは命がけで守る。そんな姿が描かれているのだとおもう。そして、観ている人は、そういう哀しすぎるほどに真摯な姿に胸を打たれる。あるときある日曜インタビューに答えてあるひとが、言ってい
た。神父さんと、お医者さん、そしてそのひとが生業とする法律業のひとたち、が、つねに相手となるひとは、みな緊急時、非常時…、つまりは、人生の中でも滅多にないほどの、つらい状況に囲まれている。ということを、言われていたのが印象的だった。皮肉にも、そういう状況になってはじめて、気づけること、わかることというのが、恐らく、たくさんある。家族というものを、特段、なにも考えることなく、自然にこころに感じるままに育ってきた、呑気なわたしであるけれど。考えると、やっぱり、ちょっと不思議で。それで、どうしても大事なものであるようだ。

あるとき、ふと思った。当たり前のことだけど、いま、この時代に生のある者はみな、親がある。顔を知ろうと知るまいとある。その親たちにも親がある。つまり、ただのひとりも、子どもをもたなかったひとは含まれていないということ。考えてみると、おそろしい。まぁ、猿の時代までさかのぼらずとも…。ただのひとりも、命を途切れさせなかったってことだよね。ん?そんなに考えすぎなくてもいい?。まぁ、そう考えると、一方で、みんなどこかでつながっているわけで、仮にひとりが残せずとも、その兄弟が、あるいは従兄弟などが残すことで、もともとの祖父母やその前の世代のえにしは、必ずどこかにつながっていっているわけで…、とも、考えることもできるけど…。ただ、どの命にもそんな、つながりがあるとおもうと、甲子園のたった一校の負けないチーム(優勝校)より、何倍もすごい確率でつながってきた命なのかしらん、と、おもえなくもなく…、ちょっと不思議な気分にもなる。それなのに、どうして、ひとはつまらぬことで争うのでしょう。勝ちたがるのでしょう
。それも、つまりは、自分の遺伝子を残したい(という)本能?なのかしらん。地球の裏側の顔もみたこともない相手にある日突然、先制したいなんておもわないくせに、どうして隣の人間には、いちいち腹が立ったり、鬱陶しくなったりするのでしょうね。みんなが、それぞれの強さや弱さとちゃんと向き合うことができて、ひとの存在を許しあえるだけの度量を、全員がもっていたらば、そんなつまらぬ争いはなくなるのに。つまりは、そういう人間だけが生まれてくる、ということは事実上不可能ってことなのかしらね。むにゃむにゃ。まぁ、仕方ないか。あれ、なんか、話が脱線したまま…、愚痴になっちゃった。ともあれ、生きる姿勢だけは、子孫やその先の子どもたちに恥ずかしくないように、生きてみたいものだ、なぁ。