こうして、パソコンというものの恩恵はとても大きくもらっているわけだけれど、それでも、ボタン一つでとてもできない、事柄、あるいは、ひたすら手作業の、モノクロの、やたら手間のかかる…、そんな時間、時代がとてもありがたく、そして懐かしいとも思えるのだ。氷山の一角という表現(事柄)は、必ずしもわるいことだけではなくて、一を見て十を知るというような、想像力を鍛え、限られた情報から全体を推察する…、なんて捉え方ではとても意義深いことでもあるけれど、先端技術のもたらしてくれるボタン一つ…、というのは、ともすると、そんな推察や、想像の入り込む、ありがたい(ときにわくわくするような…)時間、(期待感や、ときにしんどさの混じった)そんな時間さえ、持つのを困難にしてしまう。ときもあるのかもしれない。かといって、できるものを敢えて使わずに…、というのも。こころにあんまり優しくないし…。むずかしい。ただ、先端の技術がくれる便利とは、まったく違う原理(というか流れ)のなかで、(見えなくても)その多くに影響を受けな
がら、ひとは生きていて…。そのことを、しみじみと感じながら時を生きる(のがむずかしい時代になってしまっているけれど)のも、とても大切なことなのではないかなぁ~、と、ふと思います。

こんな言い方をすると、ちょっとキザだけど。なかなかどこにも行けない、ある意味不自由な暮らしではあるのだけれど。不思議と、こんな暮らしだからこそ、なんとなく感じられることや、ものも、たくさんあって、こころの感じとしては、むしろ、“じっとしてる放浪”!?のような、不思議な自由さというか、仕事という生業に縛られてないことで得られて(しまって)いる、不思議な解放感、のようなもの…、がある。先のことを考えれば、確かに、この上なく不安(定)この上ないけれども、ふと、それらを横におきさえすれば、これまた、この上なくしあわせな気楽さ、というか、まるで気儘な旅の途中!を日々味わうようなときの流れ…、のなかに、毎日いるわけで…。これは、お金もらっても、いや、払っても、必ずしも、自らの希望でこういう状況に身を置けるわけではなく…。そうおもうと、満更、文句ばっかり言ってるのも贅沢すぎるような気もしてきて…。どこまでいっても、ひとは、あれわたしいままでなにしてたんだろ~?って、ことなのかもしれないけど。それ
でもなお、ああ、あれはあれでよかったって、そうおもえるときが少しでもあるのだとしたら、それはとてもありがたいことで。つまりは、まぁ、やせ我慢の呑気者といれば、そうなのですが、ともあれ、こうして、いろいろ考える機会を、そういう材料のたくさんある環境にあることができるということは、これまたひとつの運なのかもしれないと…、ふと思うわけなのです。

よく、しんさいのところなんかに激励にいったひとが、反対に元気をもらったんだ!って、言っているけれど。つまり、ひとは、その~、家族というか、いつも一緒にいる人、同じ釜の飯を食べるひと、そういうひとももちろん、かけがえがなくありがたい存在なのだけれども、滅多に会わないけれどもそれでも会えると嬉しいたくさんのひとたち(それを友というのかしら)に、たくさんの元気をもらえるのかもしれない。つまりは、いつも触れているのとはちょいと違う、空気に触れるというのでしょうか。そして、元気がもらえる。つまり、新鮮な、あるいは、自分やその周囲にいつもあるのとは、違った空気。もちろん、たとえば、毎日いろいろなひとに会う仕事をしていても、翌日にはすぐ忘れちゃうひとがいるいっぽうで、ずっと印象に残る人もいる。そうやって、ひとは、いろんなひとに会うことで、まったく変化のない、ともすると閉塞しがちな日常に、また、元気が沸いてくる。そういうことなのかなって。ふと思いました。こんな暮らしをしていると、ときにほんとに狭い狭い
井戸におっこちちゃったみたいな錯角におちいりがちだから、よけいに、そとで友に会って他愛ない話をするだけでも、ことのほか、嬉しかったり、刺激になって元気をもらえたり…、するわけです。たとえば、それが、しみじみ心に沁みてくる音楽だったり、映画の中のひとつの台詞だったり…、しても、それは、ひとつの有難い時間なのですねぇ。そういえば、深夜のラジオが、明日に掛ける橋と、ドナドナ…、それからベッドミドラーの、あれなんてタイトルだっけ…。「いいものは、自然と残っていくのですねぇ」って、ラジオのひと。ほんとそう思います。いいものは時間がちゃんと、残してくれるんです。っと、嬉懐かしい、メロディに、耳を傾けながら、おもっていました。