しとしと雨が降っています。15度でした。いつかも書いた、道路の温度表示です。遠いほうの図書館まで、本を返しに行ってきました。深夜。期限をもう随分と過ぎていました。ほかの図書館から取り寄せてもらったものは、ほんとは早くに返さないといけないのですが…。催促が来るまでに読めばいいか…、呑気にしてたら、そういえば、となりがうるさいから電話線は抜いていたのだったっけ…。おやおや。というわけで、夜中に気晴らしドライブ!?(と買い食い)を兼ねていってきたのでした。冷房も暖房もいらない季節。雨が降ったら、じんわりする湿度が、晴れたら、雨上がりの清々しい空気が、とてもよく肌に感じられます。滲みるように…。昼間、窓を開けると、草いきれというのでしょうか、草たちの発する独特のにおいが室内まで届いてきます。生きるちからって、やつですかね。そういえば、つばめさん。近くで声はするけれども、このところ、納屋に入っていく姿がみられない。やっぱり、巣作りするには、以前の巣が古すぎて、修復がたいへんすぎたのか、それと
も、ほかの理由からか…。そういえば、ときどき、近所の猫がうちの庭を闊歩してるみたいだし…。この前は、入っていってずっとでてこなかったり、二羽がしきりに交互に出入りしてたから、てっきり巣作り決定!だとおもったのになぁ。どうなんだろ?

窓から、そおっと見ていると、いちど如雨露にいっぱい水を入れ、ひきずるように運んでいくから、着くまでには半分以上こぼれていて、それでも、いっしょけんめいそれぞれの苗に水をやっている。そして、終わったから戻っていったとおもったら、再び水をこぼしながら、えっちらおっちら…。微笑ましいといえばいえなくもなく…、哀れでかなしいといえばそう見えなくもなく…、あえて、深く感情に負けないようにはしているけれど。ともあれ、そんな具合。あんまり水をあげすぎてもねぇ。そうおもうけれども、言ってもねぇ。せっかく、本人の意向が生まれているのだから、苗にとっていいとかわるいとかは、この場合二の次でいいのかなぁと。好きにまかせている。それでも、今のところ、ナスの一本が少し、伸び悩んでいるのを除けば、まぁ順調に育っている。このまま、枯れずに、彼女のやりがいの相手を務めてくれるといいのだけど。ともあれ、昼間、わたしが眠くてダウンしている間、どうやら、やっぱり落ち着きをなくしているようだ(詳しくはわからぬが)。。でも、不
思議と、わたしが起きると、まもなくして、家に戻ってくる音がするから、たぶん、家の周りで、なんとかかんとか、彼女の“すること”は、事足りているのだろうか。庭が広くてよかったと思えるかな。こういうときは。

深夜、車を走らせていると、たぶん、家でじっとしていたのでは、思い浮かばないことも自然とこころに去来する。だから、これが飛行機だったりしたら、はて、どんなおもいが浮かぶんだろうな…、とちょっとおもったり。ともあれ、動いているときに、いろいろな発想が浮かぶものだ、というのは、とても興味深く、意義深いような…、そんな気がする。それにしても、こんな風に老いることができたらな、と、ちょっとおもう(だれにもめいわくかけないで…、なんていうのは、奇麗事だ!。なんてね)。無論、こころから安心して甘えることができてはじめて叶うことなのかもしれないけれど。いや、吉本さんの『老いの超え方』を読んで、ちょっとばかり、感傷に浸っているだけかもしれない。わからぬ。でも、少なくとも、一年前なら、全くといっていいほど、おもいもしない感覚だ。そういえば、ちょうどいちねんになる。深夜のタクシーを飛ばして帰ってから。これはこれで、にどとないかけがえのない日々、だったのかもしれませぬ。まだまだ、これから、なのやもしれませぬが
。ともあれ、なにごとも、過ぎてからでないといえないことというのは、やまほどあるのかな。いいことも、そうでないことも含めて。一度、老いの感覚を肌で感じて、もいちど、青年に戻ってきたひとはいないから、こればかりはなんとも、わからない。わからないから、やっていられる、というのもあるのかもしれないけれど、そうなってみないとほんとうのところは、わからないのかな。こうして過ぎていく日々を、それでもいとおしいと、かけがえがないと、おもう瞬間が少しでもあったなら、それでいいと。それでいいと、思えたら、まぁ、なんとかなるのでしょうね。(からだのほうは、少し疲れているけれど、こころの方は、まぁなんとか元気です)。