あんまり頑張りすぎると、また、一気にガス欠!なんてなるといけないいけないって、わかっちゃいるのですけどねぇ。まるで、15回転と72回転でしか回れないレコードみたいだと、自分でも不器用さをおもいます。つまりは、ちょうどいいテンポのメロディが苦手…。とほほ。とはいえ、元気なときは素直に元気!つらいときは、素直につらい!ってんでもいいかなぁ~なんて、一方で甘えていたりもするわけです。
白鳥のいる小さな湖に行きました。そこに、そんな綺麗な湖があることも、白鳥が一羽ぽつんと、でも、ちっともさびしそうじゃなく悠々と佇んでいることも、知りませんでした。たぶん、遠足かなにかで来たような気がするのに、ちっとも知らなかった。こんなに青葉美しい、湖畔の散策路のある湖畔があったなんて…。もっとも、車の中で待てない彼女が「帰ろ、帰ろ」。それを、しばし、忘れてのほんの数分、いやもう少し、だったけど。わずかだからがゆえに、余計に綺麗に映る景色もあるのかも…。
数年前、彼女の入院中によく利用した家族経営のパン屋さん。看板娘のおばあさんはいまも元気だった。レジ打ちに失敗して、さんじゅうまんいくら…、になってたけど。それも可愛いい。そのおばあさんが、ガラスのドア越しに見えるわが車をちらりとして。(影が動くのがわかったらしく…)「あれ、犬がおるんかと思った。よくおるでしょう…」「うん。しゃべる犬だけどね。はちじゅう幾つの…」「そうか、わかった」「ほんまに、言うこときかんで困るんですよ~。」「あれ、後ろの席におるん?」「いいや、前」「でも、こうやって、見とるのがわかると、ちゃんとおりこうさんでね~」。途中で、うん?という顔してたから、果たして、影の正体が同い年ぐらいのだ!というのが、通じたかどうかは、いささか不明。ひょっとしたら、ほんまに年寄り犬のことだと思ってたかも…。まぁいいか。
それにしても、件のわが隣人には閉口の限り。まったく。自分の立場を守ることしかおもっとらん。あの災害の翌日にゴミがどうの~と、実に無神経なタイミングをとったかとおもえば、一ヶ月以上もすぎてから、区内でいくらいくらの寄付を決めたから、よそに払う分は充分気をつけるように!という、開いた口も塞がらんような、文言のビラを配り…。(まったく、ひとの善意をなんとこころえる!わたしでなくても、文句のひとつも言いたくもなろう)。長のつくひとは、いざというのときに責任をとることが仕事なのに。自分の立場を守ることだけに汲汲と。おりこうさんでいたいばっかりに、表面の問題だけをその都度刈り取ればなんとかなるとおもっている。ほんとに馬鹿野郎この上なしだ!いったい、今まで何を学んで何十年も生きてきたのだ!小学生でも賢い子はもっと、まっとうな言動ができように。通勤通学時に家の前のわずか数メートルをひょこひょこ散歩するのが目障りなのだそうだ。つまりは、自分たちがひいてしまっては迷惑千万ということらしい。子ども(孫)のた
めなら、旗振って交差点の見回りを自ら買って出るくせに、もうすぐ棺おけの人間は、家のものがつきっきり(つまりは責任のあるものが常に同行せよ!)というのが、彼らの(驚きの)言い分。歳をとって弱ったものは、わずか数メートルの道路の歩行自由もいかんというのか!いつかの、若い消防士さんのことばはちっとも届いていなかったようだ。かなしい。
人間というものの品格は、まさにこういうときこそ、歴然とするものですねぇ。いったい、あと何年かして、自分が同じように絶対成らないとどうして言えよう(むしろ、ひとのことばかり平気で言える人間こそなるのに…)。なのに、よくも、そんな尊大な態度がとれるものだ。ひと(の年齢や性別)をみて、態度を変えているとしたら、もっとどうしようもない。まったく。配慮に欠ける発言だが、隣の家だけ流されてしまえ!とつい、悪態もつきたくなってしまう。ひとは、どうして、こうも、自分の事(を守ること)だけ、あるいは、(一見弱いものを)押え込もうと傲慢な態度に、なるのでしょうねぇ。つまりは、自分の弱さとちゃんと向き合うことのないまま歳を重ねてしまうと、そんな風な愚かな人間がひとつ出来上がってしまうのですかねぇ。まったく、困ったもんです。同時に、年下とけんかをしようとする人間がいることに驚きつつも、こうして、相手が誰だろうと、信念だけは曲げない(闘いも恐れない)わたしも、確かに(不器用で)困ったものですが…。(たぶん、そん
な区長ですから、こちらがへこへこ、届け物でもしてくりゃあ、偉そうにできて満足な、だけなのかもしれませんが…。いずれにしても、まともに、相手にする必要のないものには、ほんまにおうじょうしまっせ…)。
あれれ。やっぱり溜まった愚痴で随分、紙片をつかってしまいました。いっけませんねぇ。そうそう。畑を始めた話。しましたが、きゅうりと、ナスと、ミニトマト。あとは、だめもとでスイカをひとつ。庭のほんの一部ですが、少し、ちゃんとそれらしく手が入って、生活感(清潔感)が少しでたせいでしょうか。ついに、つばめさんが帰ってきてくれました。数日前から、近くで声は聞いていました。もしや?と、わくわくしていたら、きょう納屋に入っていくのが見えました。父がいたころは、必ず毎夏かえってきて、たいてい秋までに2度巣作り子育てをしていたものです。それが、いつごろからでしょう。めっきり見えなくなってしまって…。最初は、農地改良や農薬やらで、巣立った子が帰ってこなかったのかと思っていたけど…。ひょっとしたら、彼らはそこに住む人の性格やらまで、わかるのかもしれません。わたしは、父ほど鳥好きではないけれど、それでも、母にくらべれば、随分生き物のことをおもっている。まだ、巣作りできるかどうかの偵察だけだったのかもしれないけ
れど、もし、戻って来てくれたのだったら、ほんとにうれしい。なんで、こんなにうれしいのだろうって、自分でもおもうほど、うれしい。生き物たちは、きっと、ひとのことをちゃんと見てくれているのだと、それは、ほんとうにおもいます。だから、なんだかつばめさんたちに、認めてもらえたような気がしたのかな。早く、巣作りの姿が見られるといいな。心からおもいます。(カエルさんの話は、また今度します。それから、旅のつづきも…)
白鳥のいる小さな湖に行きました。そこに、そんな綺麗な湖があることも、白鳥が一羽ぽつんと、でも、ちっともさびしそうじゃなく悠々と佇んでいることも、知りませんでした。たぶん、遠足かなにかで来たような気がするのに、ちっとも知らなかった。こんなに青葉美しい、湖畔の散策路のある湖畔があったなんて…。もっとも、車の中で待てない彼女が「帰ろ、帰ろ」。それを、しばし、忘れてのほんの数分、いやもう少し、だったけど。わずかだからがゆえに、余計に綺麗に映る景色もあるのかも…。
数年前、彼女の入院中によく利用した家族経営のパン屋さん。看板娘のおばあさんはいまも元気だった。レジ打ちに失敗して、さんじゅうまんいくら…、になってたけど。それも可愛いい。そのおばあさんが、ガラスのドア越しに見えるわが車をちらりとして。(影が動くのがわかったらしく…)「あれ、犬がおるんかと思った。よくおるでしょう…」「うん。しゃべる犬だけどね。はちじゅう幾つの…」「そうか、わかった」「ほんまに、言うこときかんで困るんですよ~。」「あれ、後ろの席におるん?」「いいや、前」「でも、こうやって、見とるのがわかると、ちゃんとおりこうさんでね~」。途中で、うん?という顔してたから、果たして、影の正体が同い年ぐらいのだ!というのが、通じたかどうかは、いささか不明。ひょっとしたら、ほんまに年寄り犬のことだと思ってたかも…。まぁいいか。
それにしても、件のわが隣人には閉口の限り。まったく。自分の立場を守ることしかおもっとらん。あの災害の翌日にゴミがどうの~と、実に無神経なタイミングをとったかとおもえば、一ヶ月以上もすぎてから、区内でいくらいくらの寄付を決めたから、よそに払う分は充分気をつけるように!という、開いた口も塞がらんような、文言のビラを配り…。(まったく、ひとの善意をなんとこころえる!わたしでなくても、文句のひとつも言いたくもなろう)。長のつくひとは、いざというのときに責任をとることが仕事なのに。自分の立場を守ることだけに汲汲と。おりこうさんでいたいばっかりに、表面の問題だけをその都度刈り取ればなんとかなるとおもっている。ほんとに馬鹿野郎この上なしだ!いったい、今まで何を学んで何十年も生きてきたのだ!小学生でも賢い子はもっと、まっとうな言動ができように。通勤通学時に家の前のわずか数メートルをひょこひょこ散歩するのが目障りなのだそうだ。つまりは、自分たちがひいてしまっては迷惑千万ということらしい。子ども(孫)のた
めなら、旗振って交差点の見回りを自ら買って出るくせに、もうすぐ棺おけの人間は、家のものがつきっきり(つまりは責任のあるものが常に同行せよ!)というのが、彼らの(驚きの)言い分。歳をとって弱ったものは、わずか数メートルの道路の歩行自由もいかんというのか!いつかの、若い消防士さんのことばはちっとも届いていなかったようだ。かなしい。
人間というものの品格は、まさにこういうときこそ、歴然とするものですねぇ。いったい、あと何年かして、自分が同じように絶対成らないとどうして言えよう(むしろ、ひとのことばかり平気で言える人間こそなるのに…)。なのに、よくも、そんな尊大な態度がとれるものだ。ひと(の年齢や性別)をみて、態度を変えているとしたら、もっとどうしようもない。まったく。配慮に欠ける発言だが、隣の家だけ流されてしまえ!とつい、悪態もつきたくなってしまう。ひとは、どうして、こうも、自分の事(を守ること)だけ、あるいは、(一見弱いものを)押え込もうと傲慢な態度に、なるのでしょうねぇ。つまりは、自分の弱さとちゃんと向き合うことのないまま歳を重ねてしまうと、そんな風な愚かな人間がひとつ出来上がってしまうのですかねぇ。まったく、困ったもんです。同時に、年下とけんかをしようとする人間がいることに驚きつつも、こうして、相手が誰だろうと、信念だけは曲げない(闘いも恐れない)わたしも、確かに(不器用で)困ったものですが…。(たぶん、そん
な区長ですから、こちらがへこへこ、届け物でもしてくりゃあ、偉そうにできて満足な、だけなのかもしれませんが…。いずれにしても、まともに、相手にする必要のないものには、ほんまにおうじょうしまっせ…)。
あれれ。やっぱり溜まった愚痴で随分、紙片をつかってしまいました。いっけませんねぇ。そうそう。畑を始めた話。しましたが、きゅうりと、ナスと、ミニトマト。あとは、だめもとでスイカをひとつ。庭のほんの一部ですが、少し、ちゃんとそれらしく手が入って、生活感(清潔感)が少しでたせいでしょうか。ついに、つばめさんが帰ってきてくれました。数日前から、近くで声は聞いていました。もしや?と、わくわくしていたら、きょう納屋に入っていくのが見えました。父がいたころは、必ず毎夏かえってきて、たいてい秋までに2度巣作り子育てをしていたものです。それが、いつごろからでしょう。めっきり見えなくなってしまって…。最初は、農地改良や農薬やらで、巣立った子が帰ってこなかったのかと思っていたけど…。ひょっとしたら、彼らはそこに住む人の性格やらまで、わかるのかもしれません。わたしは、父ほど鳥好きではないけれど、それでも、母にくらべれば、随分生き物のことをおもっている。まだ、巣作りできるかどうかの偵察だけだったのかもしれないけ
れど、もし、戻って来てくれたのだったら、ほんとにうれしい。なんで、こんなにうれしいのだろうって、自分でもおもうほど、うれしい。生き物たちは、きっと、ひとのことをちゃんと見てくれているのだと、それは、ほんとうにおもいます。だから、なんだかつばめさんたちに、認めてもらえたような気がしたのかな。早く、巣作りの姿が見られるといいな。心からおもいます。(カエルさんの話は、また今度します。それから、旅のつづきも…)