「あんたもせんせいのとこ行くん?」「うん」「どこがわるいの?」…。「かおとあたま。」…「ぶふ(笑ったおと)。」…。一分後。「あんたも(検査)するん?」「うん」「どこがわるいん?」…。「かおとあたま。」…。「ぶふふ。ほんなことないやろ。あんたにんちしょう?」…。三分後。「ねぇ、にんちしょうってどんなん?」…。「さぁ~、ぱっぱらぱーやろかぁ~」「そんなことないわ」…。五分後。「あんた、どこがわるいん?」「あ・た・ま」…(以下どうぶん)…。まぁ、こんな感じです。ことばとは、ひとつに辞書に載っている意味と音をもつ、伝達手段のことではありますが。それが、すべてではない。通訳できない、ものがある。いや、むしろ、当人同士にしかわからない、とっておきのキャッチボール!のようなもの…。なのかもしれない。たぶん…ね。この場合、別に、やりとりの内容、つまり意味交換、情報交換、という意味での価値はあまりない。でも、声を出して話すこと。ことばのもっと、重厚な役割をひきだして、その存在自体が深い内容となる、別の価
値を生み出す。ことばとは、たぶん、そういうもののことをいうのだろうと、このごろおもう。無論、こういうやりとりの機会がなければ、しかと気づくのにもっと時間がかかっただろう。
時間がかかるというのは、ひとつにはその通りのことだけど、必ずしもいつも停滞だけを意味するのではなくて、むしろ、別の視点からみれば、たぶん、その時はそれと気づけずとも、もっと深大な、べつの何かを早めて、あるいは、育てて、準備してくれている(時間)でもあるのだろう。ふと、おもった。たぶん…、ね。だから、もっとおおきな目で眺めれば、きっと、もっと大きなスケールで順調なのだ!ということも、できる!かもね。ともあれ、実に他愛のない、ほとんど、そのときそのときの、ひらめきによる、口からでまかせの会話だけど、それでも、互いに、意図せず噴出すこともあるし、ほんとに、愉快に可笑しいとおもえる時だってある。別に、慰めたいとか、大事にしたいとか、特段、肩肘張っているわけではないからこそ、知らずにできる、キャッチボールもある、のかもしれない。と。このごろ、ふと、回り道も、まんざら、わるいことばかりでもないかもね。と、案外、貴重なことだと、でも、こんなこと、ほかのひとには教えてあげないもんね~、と、ひそかに、思
ったり…。している。
それにしても、ときどき、ほんとに、可笑しい。きょうも、ワイパーの激しい車の中で、「とうもろこしって、どうやって植える?」と、訊きたいのだが、通じない。耳が遠いので、予め登場する新しい名詞が予想できないときは、仕方ない。「ぽろぽろもし~?そんなん、聞いたことないわ~。なんやそれ?(と、真剣な声)」。また、私が意味のわからんこと言ってからかってると思ったらしく(確かに、その直前までそんな流れだった)、まったく、通じない。いつか、日本語が不確かな外国人の耳日本語がオカシクて笑えるのがあったけど、まぁ、そんなもん。意外性がツボに効く。実際、「トイレ行きたい!」と、「薬ちょうだい!」一緒になって、いきなり「ウンチちょうだい!」に、なったりするし。まぁ、レコードの針のどこに落ちるかで、微妙なイレギュラーが愉しめたりも、するんだな。これは、事務的な任務とそういう仕事をしているだけのひとには、永久にわからない境地!なのかもしれないんだな。いずれにしても、わかるひとにしかわからない!。この、フレーズと、
無言のうなずき(あい)には、ちょっとしたくすぐったさと、あったかさが含まれている。ちなみに、「いちたすいちは~?」「(ちょっと怒って)さん!」。これは、どちらかが、苛々しだしそうなときの、魔法のぱすわまし!に、なっていたりする。
こういう絶妙の呼吸。というのでしょうか。見せ掛けのことばや、事務的の些事なんて、何の意味もなさないときの、コミュニケーション(∵にせもののウソとほんもののウソがあるのだ)。これは、やはり、時間の熟成がつくってくれるんじゃ、ないかな。むろん、まだまだこれからだけど、それでも、そのきっかけにたどり着くまでには、とてもいっときには、思い返せないくらいの、時間も空間も、疲労も、徒労も、怒りも、泣きも、もう、さまざまな、喜怒哀楽、泣くに泣けないやるせなさや、もどかしさ、かなしさ、そんなこんなのいっぱいいっぱいがあるわけで…。だから、わかるひとにしかわからない!(誇らしさにも)なるわけですが。ともあれ、時間の中で、知らぬ間に、少しずつ少しずつ積みあがっていくもの、(たとえば、懲りない外野たち?にはまったく残らないもの)、かけがえのない、空気、そして、呼吸、あるいは、たいせつな意味を感じ取る感性が、磨かれていく。のかもね。だとすると、ぶつかるとき、真剣にぶつかりあえるってことも、たぶん、きっと、たい
せつなんだ。もっとも、そうできるというのは、互いのとてもことばに(あえてすることもない)信頼感があるのだろうな。ふと、そうおもった。(それでも、確かに、もどかしいのには変わりないけど、少しずつ少しずつ、できることから、とりくんでいけたら…。時間も空間も、知らぬ間に、案外、近づいているのかもしれないし。楽天的すぎるかなぁ~。いや、むろん、きめるときは、たのみますだけど。)
値を生み出す。ことばとは、たぶん、そういうもののことをいうのだろうと、このごろおもう。無論、こういうやりとりの機会がなければ、しかと気づくのにもっと時間がかかっただろう。
時間がかかるというのは、ひとつにはその通りのことだけど、必ずしもいつも停滞だけを意味するのではなくて、むしろ、別の視点からみれば、たぶん、その時はそれと気づけずとも、もっと深大な、べつの何かを早めて、あるいは、育てて、準備してくれている(時間)でもあるのだろう。ふと、おもった。たぶん…、ね。だから、もっとおおきな目で眺めれば、きっと、もっと大きなスケールで順調なのだ!ということも、できる!かもね。ともあれ、実に他愛のない、ほとんど、そのときそのときの、ひらめきによる、口からでまかせの会話だけど、それでも、互いに、意図せず噴出すこともあるし、ほんとに、愉快に可笑しいとおもえる時だってある。別に、慰めたいとか、大事にしたいとか、特段、肩肘張っているわけではないからこそ、知らずにできる、キャッチボールもある、のかもしれない。と。このごろ、ふと、回り道も、まんざら、わるいことばかりでもないかもね。と、案外、貴重なことだと、でも、こんなこと、ほかのひとには教えてあげないもんね~、と、ひそかに、思
ったり…。している。
それにしても、ときどき、ほんとに、可笑しい。きょうも、ワイパーの激しい車の中で、「とうもろこしって、どうやって植える?」と、訊きたいのだが、通じない。耳が遠いので、予め登場する新しい名詞が予想できないときは、仕方ない。「ぽろぽろもし~?そんなん、聞いたことないわ~。なんやそれ?(と、真剣な声)」。また、私が意味のわからんこと言ってからかってると思ったらしく(確かに、その直前までそんな流れだった)、まったく、通じない。いつか、日本語が不確かな外国人の耳日本語がオカシクて笑えるのがあったけど、まぁ、そんなもん。意外性がツボに効く。実際、「トイレ行きたい!」と、「薬ちょうだい!」一緒になって、いきなり「ウンチちょうだい!」に、なったりするし。まぁ、レコードの針のどこに落ちるかで、微妙なイレギュラーが愉しめたりも、するんだな。これは、事務的な任務とそういう仕事をしているだけのひとには、永久にわからない境地!なのかもしれないんだな。いずれにしても、わかるひとにしかわからない!。この、フレーズと、
無言のうなずき(あい)には、ちょっとしたくすぐったさと、あったかさが含まれている。ちなみに、「いちたすいちは~?」「(ちょっと怒って)さん!」。これは、どちらかが、苛々しだしそうなときの、魔法のぱすわまし!に、なっていたりする。
こういう絶妙の呼吸。というのでしょうか。見せ掛けのことばや、事務的の些事なんて、何の意味もなさないときの、コミュニケーション(∵にせもののウソとほんもののウソがあるのだ)。これは、やはり、時間の熟成がつくってくれるんじゃ、ないかな。むろん、まだまだこれからだけど、それでも、そのきっかけにたどり着くまでには、とてもいっときには、思い返せないくらいの、時間も空間も、疲労も、徒労も、怒りも、泣きも、もう、さまざまな、喜怒哀楽、泣くに泣けないやるせなさや、もどかしさ、かなしさ、そんなこんなのいっぱいいっぱいがあるわけで…。だから、わかるひとにしかわからない!(誇らしさにも)なるわけですが。ともあれ、時間の中で、知らぬ間に、少しずつ少しずつ積みあがっていくもの、(たとえば、懲りない外野たち?にはまったく残らないもの)、かけがえのない、空気、そして、呼吸、あるいは、たいせつな意味を感じ取る感性が、磨かれていく。のかもね。だとすると、ぶつかるとき、真剣にぶつかりあえるってことも、たぶん、きっと、たい
せつなんだ。もっとも、そうできるというのは、互いのとてもことばに(あえてすることもない)信頼感があるのだろうな。ふと、そうおもった。(それでも、確かに、もどかしいのには変わりないけど、少しずつ少しずつ、できることから、とりくんでいけたら…。時間も空間も、知らぬ間に、案外、近づいているのかもしれないし。楽天的すぎるかなぁ~。いや、むろん、きめるときは、たのみますだけど。)