そろそろ、眠っておかないといけない時間に、こうやって書き始めてしまうと…、つまり、細胞のおめめを醒ましてしまうようでもあり、ほんとは、こんなに遅くに書き出すのは、こころはともあれ、からだの健康にはよくないのだけれど、いけないいけないと、おもうほどに、かえってオヘソ曲がり根性がたくましくなってしまうのは、なぜだろう。
たとえば、絵を描けたらいいなとおもう。そう、こんな風に。つまり、書き始めると、勝手に手が動いて、そして、それに連動して、あたまも動き出して、いろいろなことばやアイデアが同時に触発されながら、ひとりでに、手が動き、つまりことばがつぎつぎとあふれてきて、同時にでてくる言葉の中から、いちばんつよいものが、その瞬間瞬間、こうして目に見える言葉となって、白い画面の上に、黒い文字となって浮かび上がってくるように…。おそらく、それを感性の赴くまま…、というのかもしれないが、つまり、ピアニストが、バイオリニストが、楽譜を創りだしていくように、こころの音を奏でていくように、色を画布に…、あるいは、自分流の線で風景の輪郭を切り取っていくような…、そんなイメージで絵が描けたら、どんなだろうなぁ~って、ときどき、ちょっと思うことはあります。
つまりその、書き始めるときは、ほんとに白紙のまま臨むのだけれど、手が動き出すと同時に、ひとりでに、ことばがでてきて、考えたいこと、そして、いつも感じているけどしっかりことばとしてわかっていないことなんかんが、整理されて、文字になって自分自身に教えてくれるというような感じ。書いてみないとわからないけど、同時に、書いていながらしか、はたらかない部分が確かにあって、書きながらでないと、書けないこと、つまり、考えられないことがたしかにある。それを吉本さんは、『老いの超え方』のなかで、「無(心)になること」とつまりはおなじこと、というような風に言われていたように覚えている。とても、印象的だった。書いていないと、見えてこないこと、気づきにくいことというのは、確かにあると、確かにおもうから…。とっても不思議だけれど。
蛙の声で思い出したけど、音って不思議なもののひとつで、居心地のいい音、ひとりでにこころが開ける音、そうでない音、懐かしい音、不慣れなそれ…、いろいろある。なにがどう違うのか分からない。色にもある。同じ赤でもとても、好きなものとそうでないのがあるように…。青(藍)もそうだし。ともあれ、音だが。いちばんよく聞いているのは多分自分の声だろうけれど。ひとが聞いている音とは、多少違うらしい。わたしは、絶対音感なんてかけらもないから、好きな音とそうでないのが、何がどう違うのか、どういう傾向にあるのか音階ではとても分析できないけれど。でも、確かにありますねぇ。ただ、低ければいいというのでもない。それに、表情やこころが限りなく少ない音(声)もある。深夜のラジオで、ときどき思う。寝付きやすい声とそうでない声。ラジオの場合。わたしは断然、おとこのひとの方が耳に優しい(無論、どれでもいいわけじゃあ、ない!)。と感じるけれど、男のひとの場合、女性の声の方が安心なのだろうか。それとも、夜はやっぱり、高いより低い
ほうが、宵闇としっくりくるということなのだろうか。ちょっと、不思議だ。風貌、あるいは歌詞がどんなに素敵とおもっても、唄う姿、あるいは声がさほど(胸に)響かないこともあるし。むろん、逆もある。(もちろん、好きなものは、なにがどうしたとか、理由なんか関係なく、好きなものは好きだぁ~!ってことだけど。)ちょっと面白い。(夜中に、つまらぬ、ひとりごとm--m)。とまらなくないそうなので、この辺で…。
たとえば、絵を描けたらいいなとおもう。そう、こんな風に。つまり、書き始めると、勝手に手が動いて、そして、それに連動して、あたまも動き出して、いろいろなことばやアイデアが同時に触発されながら、ひとりでに、手が動き、つまりことばがつぎつぎとあふれてきて、同時にでてくる言葉の中から、いちばんつよいものが、その瞬間瞬間、こうして目に見える言葉となって、白い画面の上に、黒い文字となって浮かび上がってくるように…。おそらく、それを感性の赴くまま…、というのかもしれないが、つまり、ピアニストが、バイオリニストが、楽譜を創りだしていくように、こころの音を奏でていくように、色を画布に…、あるいは、自分流の線で風景の輪郭を切り取っていくような…、そんなイメージで絵が描けたら、どんなだろうなぁ~って、ときどき、ちょっと思うことはあります。
つまりその、書き始めるときは、ほんとに白紙のまま臨むのだけれど、手が動き出すと同時に、ひとりでに、ことばがでてきて、考えたいこと、そして、いつも感じているけどしっかりことばとしてわかっていないことなんかんが、整理されて、文字になって自分自身に教えてくれるというような感じ。書いてみないとわからないけど、同時に、書いていながらしか、はたらかない部分が確かにあって、書きながらでないと、書けないこと、つまり、考えられないことがたしかにある。それを吉本さんは、『老いの超え方』のなかで、「無(心)になること」とつまりはおなじこと、というような風に言われていたように覚えている。とても、印象的だった。書いていないと、見えてこないこと、気づきにくいことというのは、確かにあると、確かにおもうから…。とっても不思議だけれど。
蛙の声で思い出したけど、音って不思議なもののひとつで、居心地のいい音、ひとりでにこころが開ける音、そうでない音、懐かしい音、不慣れなそれ…、いろいろある。なにがどう違うのか分からない。色にもある。同じ赤でもとても、好きなものとそうでないのがあるように…。青(藍)もそうだし。ともあれ、音だが。いちばんよく聞いているのは多分自分の声だろうけれど。ひとが聞いている音とは、多少違うらしい。わたしは、絶対音感なんてかけらもないから、好きな音とそうでないのが、何がどう違うのか、どういう傾向にあるのか音階ではとても分析できないけれど。でも、確かにありますねぇ。ただ、低ければいいというのでもない。それに、表情やこころが限りなく少ない音(声)もある。深夜のラジオで、ときどき思う。寝付きやすい声とそうでない声。ラジオの場合。わたしは断然、おとこのひとの方が耳に優しい(無論、どれでもいいわけじゃあ、ない!)。と感じるけれど、男のひとの場合、女性の声の方が安心なのだろうか。それとも、夜はやっぱり、高いより低い
ほうが、宵闇としっくりくるということなのだろうか。ちょっと、不思議だ。風貌、あるいは歌詞がどんなに素敵とおもっても、唄う姿、あるいは声がさほど(胸に)響かないこともあるし。むろん、逆もある。(もちろん、好きなものは、なにがどうしたとか、理由なんか関係なく、好きなものは好きだぁ~!ってことだけど。)ちょっと面白い。(夜中に、つまらぬ、ひとりごとm--m)。とまらなくないそうなので、この辺で…。