蛇足ですが…。
旅というのは、たぶん、帰るところがあってこそ、愉しめるものなのだろう。いついつ帰ると、わかっているからこそ、やれ、注文したものと違うものが出てきた、とか、食事が不味い、とか、お風呂のお湯がぬるい、とか、そんな、苦情さえも、きっと、ありがたい不満であるのだ。ときに。旅をすると、ほんとうに、勉強になるなぁ~、と、おもうことに、幾つも出くわす。無論、わざわざ、旅というほどでもなく、日常の動きの中にも、ほんとうは、凝縮されているのだけれど。それらを、改めて、気づかせてくれるのも、旅のひとつの効用だ。いや、たいしたことではない。たとえば、切符。さぁ、見せるというときに、スマートに出せるか。それは、パスポートしかり、お金しかり、なのだけど。大事だけれど、だからといって、そのつど、鞄の底からひっくり返さねばいけないと、いうのでは、余りに、無駄な動きが多くなりすぎるし、かといって、あっさり、だれかにとられてしまうようなところにしまうわけにもいけない。あれ、いま、どこから出したの?横に居ても、よくわから
ぬくらいに、さらりと、さりげなく、そして、必要なときには、すぐ手元に。切符だけでなく、なにものも。日常のこまごましたもの。そういう、小さなワンシーンワンシーンに、触れながら、そのひとそのひとの、雰囲気や、空気ができるものなのかもしれない。もっとも、不便このうえない、避難生活をおもうと、期限のわかっている、キャンプ生活のような気楽さを、味わうのは、むずかしいだろうなと、胸がいたむ。
たとえば、ゴルフが、ほかの球技より、難しいのは、ひとつ、余白があまりに大きいから、かもしれない。でも、その余白は、空白とは違う。むしろ、走り回りながら判断するフィールド競技や、ラリーのなかで駆け引きをするコート競技とは違い、一見、動かない中で、いろいろんなことを、考え、判断、決断、しないといけないから。予め、幾つかのパターンを想定して、その中から、その日の調子、感覚、現状、雲行き、風向き、そんないくつもの要素を考え合わせて、判断して、実際に動く。それは、だれも教えてくれない。そして、ひとつの結果の責任は、全部自分にある。しかし、かといって、一つ一つの成否に、こころを乱されてばかりでは、次の判断にまた、支障がでる。再び、まっ更な余白の中から、一点の筆を落とすかのような、一打が待っている。だから、愉しい。失敗、是愉しからずや。なのだけど。そこいら辺の機微まで、わかってもらえるひとは、なかなかいない。結果さえよければいい、というのではないのに。あれ、わたし、何が言いたかったんだろ?要するに、
余白の大きさ。これが、幾通りもの、うれしさや、かなしさや、たのしさ、くやしさ、つまりは、おもしろさを、教えてくれるのだろうな。旅にも通じる、段取りのよさ、予めの幾通りもの想定。そして、決断。そんなあれこれが、また、凝縮されている。かっこいいひとは、きまって、あれ、いつの間に準備してたの?と、準備することがあったことさえ、わからぬうちに、打ち終わっている。ものなのだろうな。でも、時には、大袈裟すぎるくらいに、しんどいしんどいと、言ってる姿もまた、いいもの。そんな気もする。
書いておいて、こんなこというのなんだけど、きょうのはちょっと…、なんと言うか…、いま、どうしても言いたいこととは違うような…。ともあれ、蛇足です。m(__)m
旅というのは、たぶん、帰るところがあってこそ、愉しめるものなのだろう。いついつ帰ると、わかっているからこそ、やれ、注文したものと違うものが出てきた、とか、食事が不味い、とか、お風呂のお湯がぬるい、とか、そんな、苦情さえも、きっと、ありがたい不満であるのだ。ときに。旅をすると、ほんとうに、勉強になるなぁ~、と、おもうことに、幾つも出くわす。無論、わざわざ、旅というほどでもなく、日常の動きの中にも、ほんとうは、凝縮されているのだけれど。それらを、改めて、気づかせてくれるのも、旅のひとつの効用だ。いや、たいしたことではない。たとえば、切符。さぁ、見せるというときに、スマートに出せるか。それは、パスポートしかり、お金しかり、なのだけど。大事だけれど、だからといって、そのつど、鞄の底からひっくり返さねばいけないと、いうのでは、余りに、無駄な動きが多くなりすぎるし、かといって、あっさり、だれかにとられてしまうようなところにしまうわけにもいけない。あれ、いま、どこから出したの?横に居ても、よくわから
ぬくらいに、さらりと、さりげなく、そして、必要なときには、すぐ手元に。切符だけでなく、なにものも。日常のこまごましたもの。そういう、小さなワンシーンワンシーンに、触れながら、そのひとそのひとの、雰囲気や、空気ができるものなのかもしれない。もっとも、不便このうえない、避難生活をおもうと、期限のわかっている、キャンプ生活のような気楽さを、味わうのは、むずかしいだろうなと、胸がいたむ。
たとえば、ゴルフが、ほかの球技より、難しいのは、ひとつ、余白があまりに大きいから、かもしれない。でも、その余白は、空白とは違う。むしろ、走り回りながら判断するフィールド競技や、ラリーのなかで駆け引きをするコート競技とは違い、一見、動かない中で、いろいろんなことを、考え、判断、決断、しないといけないから。予め、幾つかのパターンを想定して、その中から、その日の調子、感覚、現状、雲行き、風向き、そんないくつもの要素を考え合わせて、判断して、実際に動く。それは、だれも教えてくれない。そして、ひとつの結果の責任は、全部自分にある。しかし、かといって、一つ一つの成否に、こころを乱されてばかりでは、次の判断にまた、支障がでる。再び、まっ更な余白の中から、一点の筆を落とすかのような、一打が待っている。だから、愉しい。失敗、是愉しからずや。なのだけど。そこいら辺の機微まで、わかってもらえるひとは、なかなかいない。結果さえよければいい、というのではないのに。あれ、わたし、何が言いたかったんだろ?要するに、
余白の大きさ。これが、幾通りもの、うれしさや、かなしさや、たのしさ、くやしさ、つまりは、おもしろさを、教えてくれるのだろうな。旅にも通じる、段取りのよさ、予めの幾通りもの想定。そして、決断。そんなあれこれが、また、凝縮されている。かっこいいひとは、きまって、あれ、いつの間に準備してたの?と、準備することがあったことさえ、わからぬうちに、打ち終わっている。ものなのだろうな。でも、時には、大袈裟すぎるくらいに、しんどいしんどいと、言ってる姿もまた、いいもの。そんな気もする。
書いておいて、こんなこというのなんだけど、きょうのはちょっと…、なんと言うか…、いま、どうしても言いたいこととは違うような…。ともあれ、蛇足です。m(__)m