きちんと書こう、きちんと書こう、きちんと書けるときができてから書こう…、そうおもっていると、よし、今ならいいぞ!書けそうだというときは、気持ちに余裕も元気もあるから、自然と、じゃあ、いまのうちにしておかなきゃいけないことを、片付けてから、もっと気持ちに余裕をつくってから書けば、さらにいいのが書けるに違いないと、おもう。し、実際、いい時間というのは貴重だから、少しでも長く保たせたいし、少しでも長くいろんなことを充実しながらしていたいと、おもう。すると、ずっと続くようにも思えていた時間がたち、気が付くと、だんだんと、からだのほうが、眠くなってくる。気持ちと裏腹に、疲れが集中力を少なくしていく。すると、あんなに、大丈夫だった感じが、だんだんとあやしくなり、おやおや、こりゃ、きょうはもういい感じで書けないや。あしたにしょう。と、なってしまう。寝て起きると、体力は確かに回復しているけれど、きのうのあの、すごくいい感じの、いろんなことばが次々でてくる予感、に包まれた感覚は、やっぱり、少し違っている
のだ。たのしみを、少しでも後に残して、それを気持ちの張りにして、頑張る感じ…というのが、実はとても好きなので、どうしても、あとにあとに、まわしてしまうのだが、ときに、こんな風に、ともあれ、いまじゃないと、同じ感覚は二度とない!という、厳しさを目の当たりにし、ちょっと悲哀を味わったりもする。
してみると、タイミングとは、ほんにむずかしい。ものです。いつもいつも、いいことばかりじゃないし、その反対でもない。わかっちゃいても、その刹那刹那の、空気や気分をうまく、やりくりすること。これが、頑張るときに頑張れるための栄養!だったりもするのだけど、これには、多分、天性の勘というか、信念のようなものが多分にあるようで、根気よく、根気よく、やっていくしかないのだろうな、とはおもいます。いつもいつも、思い立ったら吉日!というわけでもないし、いつもいつも待てば海路の~、というのでもない。そこいら辺の、空模様の読み方(経験や勘や、センスや覚悟や…まぁいろいろ)が、あるのだろうな、と、おもいます(と、いいながら、おもうだけなら猿でも~、なので、やっぱり、くじけず、失敗どんとこい!で、やるしかないのだろうな。)。
ひとにとって、いちばんしあわせなのは、「あなたはあなたでいてくれるだけでいい。それがいちばんのよろこび」そう、思えること、そうおもってもらえること。なのだ。そんでもって、ついでにいうと、ひとにとって、いちばんくるしいのは、居場所がないこと、あるいは、あなたはなにもしないでいい、なにもしちゃだめ、と、あらゆるしごと、というか、役目を奪われること。これがいちばんきつい。つまり、することがない。自分がしたいとおもえること、ひとのやくに立ててうれしいとおもえること…、そういう、こころの支えの根幹をなくすことが、いちばんかなしく、つらい。どんなに、厳しいところでも、自分が誰かの支えになってる、あるいは、だれかにこんなに心配してもらえてる…、そういう、こころの機微があるだけで、充分に生きていける。たぶん…ね。
当たり前のことだけど、別の場所でどんなに、ひどいことが起こっていても、それで、こころを揺さぶられたり、落ち込んだり、あるいは励みになったり、いろいろしても、やっぱり、いまいるところの、日常から解放されるわけではない、ということ。残酷だけど、ひとは、だれかと比較して、その結果で、しあわせになったり、ふしあわせになったりはしないということ。できないということ。いくら、日常的に、まだましだから~、とか、不公平だからいや、とか、といっても、根幹の部分での支えというのは、そういう比較では、決して生まれないということ。なのだろう。そうはいっても、そこはそれ。こころのどこかで、「わたしがんばってるよなぁ~、えらいよなぁ~」そう、ひそかに、決して誰にもばれないように、そうおもってないと、とってもやってらないこと。そんなことが、数え切れないほどある。仕方ない、ね。ひとに(ことばで)伝えられることは、それらのほんの一部分に過ぎない。でも、わかるひとには、そう(たくさんたくさんあるんだろうなということを)い
うことが、ちゃんと伝わる、ということが、わかる。だから、がんばれるんだと、おもう。ほんと、泣きたくなること、いっぱいあるけど、逆に、だからこそ、ふだんの軽々と生きられる日常では、決して見えないことを見ることが、気づけることが、できるのかも、しれない。と、ふと、おもいます。
のだ。たのしみを、少しでも後に残して、それを気持ちの張りにして、頑張る感じ…というのが、実はとても好きなので、どうしても、あとにあとに、まわしてしまうのだが、ときに、こんな風に、ともあれ、いまじゃないと、同じ感覚は二度とない!という、厳しさを目の当たりにし、ちょっと悲哀を味わったりもする。
してみると、タイミングとは、ほんにむずかしい。ものです。いつもいつも、いいことばかりじゃないし、その反対でもない。わかっちゃいても、その刹那刹那の、空気や気分をうまく、やりくりすること。これが、頑張るときに頑張れるための栄養!だったりもするのだけど、これには、多分、天性の勘というか、信念のようなものが多分にあるようで、根気よく、根気よく、やっていくしかないのだろうな、とはおもいます。いつもいつも、思い立ったら吉日!というわけでもないし、いつもいつも待てば海路の~、というのでもない。そこいら辺の、空模様の読み方(経験や勘や、センスや覚悟や…まぁいろいろ)が、あるのだろうな、と、おもいます(と、いいながら、おもうだけなら猿でも~、なので、やっぱり、くじけず、失敗どんとこい!で、やるしかないのだろうな。)。
ひとにとって、いちばんしあわせなのは、「あなたはあなたでいてくれるだけでいい。それがいちばんのよろこび」そう、思えること、そうおもってもらえること。なのだ。そんでもって、ついでにいうと、ひとにとって、いちばんくるしいのは、居場所がないこと、あるいは、あなたはなにもしないでいい、なにもしちゃだめ、と、あらゆるしごと、というか、役目を奪われること。これがいちばんきつい。つまり、することがない。自分がしたいとおもえること、ひとのやくに立ててうれしいとおもえること…、そういう、こころの支えの根幹をなくすことが、いちばんかなしく、つらい。どんなに、厳しいところでも、自分が誰かの支えになってる、あるいは、だれかにこんなに心配してもらえてる…、そういう、こころの機微があるだけで、充分に生きていける。たぶん…ね。
当たり前のことだけど、別の場所でどんなに、ひどいことが起こっていても、それで、こころを揺さぶられたり、落ち込んだり、あるいは励みになったり、いろいろしても、やっぱり、いまいるところの、日常から解放されるわけではない、ということ。残酷だけど、ひとは、だれかと比較して、その結果で、しあわせになったり、ふしあわせになったりはしないということ。できないということ。いくら、日常的に、まだましだから~、とか、不公平だからいや、とか、といっても、根幹の部分での支えというのは、そういう比較では、決して生まれないということ。なのだろう。そうはいっても、そこはそれ。こころのどこかで、「わたしがんばってるよなぁ~、えらいよなぁ~」そう、ひそかに、決して誰にもばれないように、そうおもってないと、とってもやってらないこと。そんなことが、数え切れないほどある。仕方ない、ね。ひとに(ことばで)伝えられることは、それらのほんの一部分に過ぎない。でも、わかるひとには、そう(たくさんたくさんあるんだろうなということを)い
うことが、ちゃんと伝わる、ということが、わかる。だから、がんばれるんだと、おもう。ほんと、泣きたくなること、いっぱいあるけど、逆に、だからこそ、ふだんの軽々と生きられる日常では、決して見えないことを見ることが、気づけることが、できるのかも、しれない。と、ふと、おもいます。