ました。というのは、半分洒落ですが、ほんとしぬほど寝ました。このいえでは、ちょっとないくらいに。要は、まえのひまで、いろいろタイミングが悪くて、結局、2日くらい寝てなかったからですが…。わたしが、しんでるあいだかじんは、いろいろ悪戦苦闘してしてたみたいですが。わたしあてらしい、電話には見事に答えてくれてたみたいだし。「いま、出かけてますが、あとでかけると言っています!」と。いい感じです。いっそ、寝てると言ってくれたらいいのですが、平常のひとは、すべてのひとが昼間は起きてて当然なのだろうなぁ~。起きてからいちいち、こころが痛まないでもないが、時には線を抜いたり、さようなとんちんかんな返答を頼りに、知らんぷりを決め込んだりして、寝ている。だから、こんな暮らしでも、なんとかなってるんだ!と、逆に自分を励ます材料にまでして…。それにしても、眠るのにも、しかるべき体力や覚悟はいるんだなあ~、と感じる激睡でした。疲れました。でも、一方に余計なものを宇宙のどこかに投げ棄てられたような、達成感もあるよ
うです。考えると、いろいろ気を揉んでしまううけど、まぁ、たぶん大丈夫でしょう。たぶん屁理屈ですが、「絶対に大丈夫」というのより、「たぶん、大丈夫」というののほうが、案外じつは、あらゆる場合に対応できそう、というか、まぁ、つまりは、これまた、“わかるひとにはわかる”式の表現ですが、まぁ、そういうことです。

そこには、なんというか、なにがなんでも大丈夫にするというゆとりのない、しがみつきでもなく、どんな時でも、できる範囲でなんとかするというもので、できないものまでしょいこんで、ええかっこするような薄い見栄は捨てられるぐらいの覚悟があるというか…、つまりは、大丈夫の意味する内容の了解、みたいなものでしょうか。できないことにでくわしても、じたばたしない、というか…。たとえば、けいたいつかって卑屈な手段に走らないだけのわきまえがあるというか…。冗談はともかく、つまり、「わかる」ということに、集約されるのでしょう、と思います。なんとかなる、という表現のなかにあることばを、了解できるような…。

それにしても、あまりにながく眠りすぎたので、まだ、感覚の一部が、現世に対応しきれてないような…。ときには、誰しも、いい加減に、ひたすら自己にある自然に身をまかせる時間は必要なのかもしれません。もちろん、起きたら、当たり前の現実は、いやというほど当たり前に広がっているわけですが。それでも、しんでる時間はたいせつです。と、わたしは勝手に思います。そういえば、あるとき、あるところに、2日寝て、2日起きてるお婆さんがいましたねぇ。ものすごく長寿の。そのニュースが流れたとき、そのお婆さんの愛称が、いまにもわたしの渾名にされそうなほどに、回りには冷やかされましたが(とても他人とは思えない、共通項まであったので…)。それはともかく。いまにしておもうと、そんなことより、お婆さんのその習慣を認めてあげた家族が、えらいなぁ~、と思います。信頼と愛情でしょうね。ちょっとまじめ気取りのこどもがいたりすると、ひとは早寝早起き、一日3食をきちんと摂らないと、絶対いけない!なんて、なんの疑いもなく言い出すものである
から…。鷲田さんの『老いの空白』には、面白い表現がでてくる。たとえば、社会的な立場や役割を強く信じているひとほど、実は「己れは何者なのか」という問から、もっとも深く眠っているひとである。だから、自分が何者なのか、苦しいときに、そういう問に向き合えるひとのほうが、実は覚醒しているのだ!、とか…。ちょっと難しすぎて脳がどこかにとんじやいそうな部分もあるけれど、総じて、「知ること」「考えること」に触れられそうな、面白さがある。(もちろん、いろいろ実感を持ちやすい環境に、いまあることも、あるだろうけれど)。そうそう、そういえば、くだんのお婆さんがなくなったひ、まさかのフォーパットをしたんだったなぁ。(そのことが後に与えた意味をおもうと)あれは、ただの偶然だったんだべか?。それにしても、不思議なことは、たくさんあります。ほんとに。

(日々感じたり、発見したりする、つまらないことごとを書きたいなぁ~と、おもうけれど、なかなか、そこまでいかないなぁ~。そこまで、こころがほぐれるころには、紙面がながくなりすぎていたり、ひとまず、無事を伝えることがたいせつで、それをおもうと、いきなり、つまらぬひとりごとを始めるのが、申し訳ない気もして…。)と、いうわけで、生き延びること、そのことに、気持ちを集中させられる環境というのは、案外ひとつの“眠った状態”でもあり、充実とたいへん、という意味では、決して悪くない環境、なのかもしれません。もちろん、逃げずにちゃんと見ておこう!という、気になれてこそですが…。ふ~。