隙間を開けた、障子越しに彼女の寝息と、枕元のラジオの奏でる音楽が聞こえてきます。こちらの灯りが見えるほうが、落ち着くみたいです。トイレに起きてくるたびに、「くすり飲んだ?飲んだ?」と尋ねます。生活時間を、半日ずらしたことで(朝のストーブのせいでたまたまそうなったのですが…)、少なくとも、わたしの(心理的)負担は減りました。夕方ごろ、家にいるのが、たまらなくなって海辺やコンビニにしばらく避難する…、なんてことも、そういえばこの頃ないし。ときどき、昼にさえ起きれないこともあるけど、起こしてきません。ひとりで台所捜索と、食べ物作りをしているみたいです。無論、ちゃんとしたものが出来上がった形跡はないのですが、それでもちゃんと片付けはしたいらしく、どれとどれを使ったのかが、わかるかっこうで、一応しまわれています。朝からひっきりなしに起こされるのは、閉口なのに、昼過ぎまで眠りこけても、ちっとも起こされないのも、不憫なような…。まことに勝手な感想ですが、ちょっと複雑な案配です。ずっといるのはたまらん
のに、こうして少しこころの平和を取り戻せると、こうしていられるのもいまだけやろな~、とか、だったらもうちょっと頑張ったらええんとちゃう?…などと、妙に感傷的になってしまいます。
そもそも、話したいことや、会話の内容がまったく違うので、ふたりで買い物をたのしむとか、一緒になにかを作る…なんてことはあまりなかった。無論、帰ったら食事にいったり、彼女の欲しいものを買いにいったり…、はありましたが。もう少し、話の合う者どうしだったらよかったのになぁ~、とは思います。ずっ~と以前から、おもっていた表現を使うと。彼女とわたしの違いについて。たとえば、手作りしたメンチカツを食べてるとします。食べ進めていて、このままだと一個だけ残りそうなとき…。彼女なら、間違いなくひとつだけ残しても仕方ないといって、無理をしても全部食べる。わたしなら。だったら、もうひとつ残して、つまり、ふたつ残して、何もないときの昼食用に冷凍しておく。別に、どちらがいいというのでもありません。つまり、一事が万事で、あらゆる事柄が、ことごとく違う。それでも、互いがちゃんと、尊重しあえたらいいのでしょうが…。彼女の場合、自分のやり方は曲げられない(それはいいことですが)のに、同時にひとのやり方を目の当たりにする
のも駄目らしくて…。結局、まわりは(つまり父とわたしは)彼女のテリトリーにはいっさい触れない…、ことでしかどうしようもなかったんだな。なのに、手伝わないって文句をよく言われていたっけ。ひとになにかを任せることのできないひと、何でもかんでも、片付けたがるくせに、いつも有り余るモノに囲まれていたくて。何か懸案が起こると、保留ができなくて、しゃかりきにすぐ片付けたがる。つまり、引き出しがない…。もっとも、わたしみたいに、引き出しに入れてることさえ忘れてるみたいな、呑気者が、決していいわけではないのですがね。さらに、もっとも、おんなの場合は、年齢差がいくらあっても関係なく、自分と違うスタイルの者は、みんなライバルになっちゃうでぃーえぬえーだったり、するのですかねぇ。もちろん、いまとなっては、さして腹もたちませんし、なるたけ彼女のしたいようにしたらいいとおもうのですが。いろんな意味で、なんだかなぁ~、と、感傷的になってしまいます。
この前、高校の同級生たちが、ささやかな新年会に誘ってくれました。中学の英語の先生をしている友人の自宅で、あろうことか、ずっと以前わたしが出たドキュメンタリー!?番組を観る!ということになって…。丁重に丁重に固辞してみたけれど、「もう、生徒にも冬休みの予定として、話してしまったから…」という、わけのわからぬ理由まで持ち出されて、敢行されてしまった。そこに居たのは、まぎれもなく、学生時代のわたしなのだけど、でもいまのわたしに言わせると、もはやわたしではないわたし…(なんだか、鷲田さんみたいな表現ですが…)。照れくささ以上に、不思議な感覚でした。そのなかのわたしが、一生懸命話してることは、もちろん覚えてはいるけれど。どうしてあの頃は、あんなになにがなんでも野球!だったのだろう?まるで、ひとごとみたいに、不思議な気がしました。想像するに、とにかく自分がいちばん得意だとおもうこと、それを表現する場所が、なにがなんでもほしかった!…のかな。もし、あの頃、わたし以外の別の女の子が、野球チームに入
れてもらったりしたら、たぶんたまらなく悔しくて、嫌だ!とおもってた。もちろん、いまは、そういうのを聞いても、素直によかったねって、感じるくらいなのに。あの頃、どうしてあんなにしゃかりきに、いちばんを目指してたんだろう。ちょっと不思議でもあり…。まぁ、それもあっていまがあるわけだから、何事も経験することに、無駄はないのかもしれないけど。あんなに必死で、鼻につくぐらいに息継ぎしないでしゃべってる自分を見るのは、とても妙なものでした。また、20年くらい経ってみたら、また違った感想になるのでしょうか。
またしても、つまらぬことばかり、かきつらねてしまいました。ときに。彼女の片方の目がものすごく充血してるのに、気がついたので、ひどい寒波がやってくるまえに、連れていってこようかと…。老いと一緒にいると、いろんなことが勉強になりますが、同時に、何かあるたびに、とてもとても心配になってしまいます。
のに、こうして少しこころの平和を取り戻せると、こうしていられるのもいまだけやろな~、とか、だったらもうちょっと頑張ったらええんとちゃう?…などと、妙に感傷的になってしまいます。
そもそも、話したいことや、会話の内容がまったく違うので、ふたりで買い物をたのしむとか、一緒になにかを作る…なんてことはあまりなかった。無論、帰ったら食事にいったり、彼女の欲しいものを買いにいったり…、はありましたが。もう少し、話の合う者どうしだったらよかったのになぁ~、とは思います。ずっ~と以前から、おもっていた表現を使うと。彼女とわたしの違いについて。たとえば、手作りしたメンチカツを食べてるとします。食べ進めていて、このままだと一個だけ残りそうなとき…。彼女なら、間違いなくひとつだけ残しても仕方ないといって、無理をしても全部食べる。わたしなら。だったら、もうひとつ残して、つまり、ふたつ残して、何もないときの昼食用に冷凍しておく。別に、どちらがいいというのでもありません。つまり、一事が万事で、あらゆる事柄が、ことごとく違う。それでも、互いがちゃんと、尊重しあえたらいいのでしょうが…。彼女の場合、自分のやり方は曲げられない(それはいいことですが)のに、同時にひとのやり方を目の当たりにする
のも駄目らしくて…。結局、まわりは(つまり父とわたしは)彼女のテリトリーにはいっさい触れない…、ことでしかどうしようもなかったんだな。なのに、手伝わないって文句をよく言われていたっけ。ひとになにかを任せることのできないひと、何でもかんでも、片付けたがるくせに、いつも有り余るモノに囲まれていたくて。何か懸案が起こると、保留ができなくて、しゃかりきにすぐ片付けたがる。つまり、引き出しがない…。もっとも、わたしみたいに、引き出しに入れてることさえ忘れてるみたいな、呑気者が、決していいわけではないのですがね。さらに、もっとも、おんなの場合は、年齢差がいくらあっても関係なく、自分と違うスタイルの者は、みんなライバルになっちゃうでぃーえぬえーだったり、するのですかねぇ。もちろん、いまとなっては、さして腹もたちませんし、なるたけ彼女のしたいようにしたらいいとおもうのですが。いろんな意味で、なんだかなぁ~、と、感傷的になってしまいます。
この前、高校の同級生たちが、ささやかな新年会に誘ってくれました。中学の英語の先生をしている友人の自宅で、あろうことか、ずっと以前わたしが出たドキュメンタリー!?番組を観る!ということになって…。丁重に丁重に固辞してみたけれど、「もう、生徒にも冬休みの予定として、話してしまったから…」という、わけのわからぬ理由まで持ち出されて、敢行されてしまった。そこに居たのは、まぎれもなく、学生時代のわたしなのだけど、でもいまのわたしに言わせると、もはやわたしではないわたし…(なんだか、鷲田さんみたいな表現ですが…)。照れくささ以上に、不思議な感覚でした。そのなかのわたしが、一生懸命話してることは、もちろん覚えてはいるけれど。どうしてあの頃は、あんなになにがなんでも野球!だったのだろう?まるで、ひとごとみたいに、不思議な気がしました。想像するに、とにかく自分がいちばん得意だとおもうこと、それを表現する場所が、なにがなんでもほしかった!…のかな。もし、あの頃、わたし以外の別の女の子が、野球チームに入
れてもらったりしたら、たぶんたまらなく悔しくて、嫌だ!とおもってた。もちろん、いまは、そういうのを聞いても、素直によかったねって、感じるくらいなのに。あの頃、どうしてあんなにしゃかりきに、いちばんを目指してたんだろう。ちょっと不思議でもあり…。まぁ、それもあっていまがあるわけだから、何事も経験することに、無駄はないのかもしれないけど。あんなに必死で、鼻につくぐらいに息継ぎしないでしゃべってる自分を見るのは、とても妙なものでした。また、20年くらい経ってみたら、また違った感想になるのでしょうか。
またしても、つまらぬことばかり、かきつらねてしまいました。ときに。彼女の片方の目がものすごく充血してるのに、気がついたので、ひどい寒波がやってくるまえに、連れていってこようかと…。老いと一緒にいると、いろんなことが勉強になりますが、同時に、何かあるたびに、とてもとても心配になってしまいます。