一難去ってまた…。そんな繰り返しです。ほんの少し穏やかでいられてるなぁ~、そうおもったとたんに、まるで、へへ~んとでも神さまに言われてるように、どないもこないもない苛立ちがやってくる。そのたびに、おんなの、とりわけかっこうの悪いおんなの、卑しさや醜さに、こころをへし折られるみたいで、実にかなしい。そもそも、おんなどうしで、こころから許しあえるというのは、ないのかしらん。いやいや、たんにひとによるだけのことなのだろうな。ほんに、かなしいことは尽きませんねぇ。ちなみに、うちのこまったさんにおきましては、このところ、ひたすらトイレットペーパーを巻き取ることに余念がなく…、ついに詰まってしまいました。やっかいなことに、道がカチコチに氷ってる真夜中にです…。へぇ~、こまった。何ごとも愉しさは、予想不能のなかにあるとはいえ、ほんにがっくし。せっかく、ひさびさにゆったり過ごせそうな夜かな、とおもったやさき…。なかなか楽はさせてもらえません。不便のなかにこそ、知恵や工夫の愉しさ、ありがたみが生まれると
おもうのだけれど、なかなかそんなかっこよく悠長ではいさせてもらえません。つくづくひとの嫉妬心が嫌になります。ああ、きょうは、きょうこそは、こんなくだらない愚痴は溢すまいとおもってたのに…。我ながら、情けなくかなしいです。
よし。がんばって気分を変えませう。記憶について、考えてみました。それは、いつ、どこで、だれと、どうした…、というようなものだけれど、でも、それは、たぶん、そういう事実うんぬんというよりは、それらを覚えているということは、こころで折に触れてリフレインしているということは、つまりそのときどきの気持ちなんだなぁ~、だから、記憶って、漠然と出来事のことではなくって、それぞれのこころが感じた、気持ちの(あるときはかなしくもあり、うれしくもあったりして)積み重ねのことなんだなぁ~、とあらためておもいました。そして、知らず知らず、ときにひとは、そんな記憶たちに、励まされたり、救われたりもするのだなぁ~、って思います。たとえば、そのひとに会えただけでも、生まれてきてよかったと思えることは、ことばだけでは、どうにもあらわしようのない感覚があるわけです。なにがどう、特別なのだと言われても、特別なものは特別なのだから、どうしようもない。代わりはどこにもない。その感覚は、かけがえがなく、同時に、どうしようもな
くせつないことでもあります。いろんな記憶を、語り合いたいし、いろんな風景を一緒に見たいなとおもう。そういう感覚。でも、いるだけでしあわせだ、ともおもえて、ただそれだけでありがたい。みんなが、そんな感覚でいられたら、どんなにいいでしょうとおもうけれども。どうも、そうはいかないみたい。ほんに、どこまでいってもたいへんは、尽きませんねぇ。
たとえば。わたしは、家族が眠っていたら、その寝息をきいたら、たとえそれが憎たらしい母親であったとしても、それは、とてもホッとすることだし、自分のいる空間で誰かが眠っているというのは、それだけでこころが和むことなのだが…。彼女には、どうにもそれがわからないことのようなのだ。子どものころ、いったい何度、憎しみまんてんの空気を充満させながら、布団をはぎとられたかしれない。あまりのひどさに、あの筆不精の父が日記に残してたほどだから、よっぽどだったのは、間違いない。それにしても、である。この、あまりにかけはなれた違いは、いったいどこから来るのでしょうねぇ。考えても仕方ありませんが、ひとを愛せないというのは、ほんに根が深いもののようです。
そうそう。話かわって。年賀状が、仕事関係から解放されてずいぶん久しいのですが、ともあれ。その、ささやかでも、ことばを交わせるその数行が、とてもありがたく、うれしいかたがたばかりなのだが、こんどは、わたしの近況がかわったこともあって、いくにんもの方が、改めて便をくださったり、電話で声をくださったりした。ほんにありがたかった。ひとが、生きられるのは、こういうことなんだなぁ~、としみじみおもったほど。さきの、新春性多弁症も、たぶんそのせいです(ということにさせてくださいm(__)m)。
ともあれ。日々は、とかくたいへんなことばかりだし…、あるいはたとえば、本気でたいへんなときに、口先だけの綺麗ごとで、なぐさめてるみたいな風情に間違ってでくわすと、ほんとにつくづく嫌な思いをすることも、たくさんたくさんあるけれど。それでもそうではない、ほんとのこころのあるかたがたが、ちゃんといてくださることがわかるから、たぶん、こうやっていられるのだなぁ~って、しみじみおもいます。ひとは、ひとであるから、ひとである。なあんて。ほんに、いろんなことがわかって、ありがたいのでしょうね。そういうのも、みいんなひっくるめて。ああ、それにしても。それでもやっぱりあいたいものですねぇ…。
おもうのだけれど、なかなかそんなかっこよく悠長ではいさせてもらえません。つくづくひとの嫉妬心が嫌になります。ああ、きょうは、きょうこそは、こんなくだらない愚痴は溢すまいとおもってたのに…。我ながら、情けなくかなしいです。
よし。がんばって気分を変えませう。記憶について、考えてみました。それは、いつ、どこで、だれと、どうした…、というようなものだけれど、でも、それは、たぶん、そういう事実うんぬんというよりは、それらを覚えているということは、こころで折に触れてリフレインしているということは、つまりそのときどきの気持ちなんだなぁ~、だから、記憶って、漠然と出来事のことではなくって、それぞれのこころが感じた、気持ちの(あるときはかなしくもあり、うれしくもあったりして)積み重ねのことなんだなぁ~、とあらためておもいました。そして、知らず知らず、ときにひとは、そんな記憶たちに、励まされたり、救われたりもするのだなぁ~、って思います。たとえば、そのひとに会えただけでも、生まれてきてよかったと思えることは、ことばだけでは、どうにもあらわしようのない感覚があるわけです。なにがどう、特別なのだと言われても、特別なものは特別なのだから、どうしようもない。代わりはどこにもない。その感覚は、かけがえがなく、同時に、どうしようもな
くせつないことでもあります。いろんな記憶を、語り合いたいし、いろんな風景を一緒に見たいなとおもう。そういう感覚。でも、いるだけでしあわせだ、ともおもえて、ただそれだけでありがたい。みんなが、そんな感覚でいられたら、どんなにいいでしょうとおもうけれども。どうも、そうはいかないみたい。ほんに、どこまでいってもたいへんは、尽きませんねぇ。
たとえば。わたしは、家族が眠っていたら、その寝息をきいたら、たとえそれが憎たらしい母親であったとしても、それは、とてもホッとすることだし、自分のいる空間で誰かが眠っているというのは、それだけでこころが和むことなのだが…。彼女には、どうにもそれがわからないことのようなのだ。子どものころ、いったい何度、憎しみまんてんの空気を充満させながら、布団をはぎとられたかしれない。あまりのひどさに、あの筆不精の父が日記に残してたほどだから、よっぽどだったのは、間違いない。それにしても、である。この、あまりにかけはなれた違いは、いったいどこから来るのでしょうねぇ。考えても仕方ありませんが、ひとを愛せないというのは、ほんに根が深いもののようです。
そうそう。話かわって。年賀状が、仕事関係から解放されてずいぶん久しいのですが、ともあれ。その、ささやかでも、ことばを交わせるその数行が、とてもありがたく、うれしいかたがたばかりなのだが、こんどは、わたしの近況がかわったこともあって、いくにんもの方が、改めて便をくださったり、電話で声をくださったりした。ほんにありがたかった。ひとが、生きられるのは、こういうことなんだなぁ~、としみじみおもったほど。さきの、新春性多弁症も、たぶんそのせいです(ということにさせてくださいm(__)m)。
ともあれ。日々は、とかくたいへんなことばかりだし…、あるいはたとえば、本気でたいへんなときに、口先だけの綺麗ごとで、なぐさめてるみたいな風情に間違ってでくわすと、ほんとにつくづく嫌な思いをすることも、たくさんたくさんあるけれど。それでもそうではない、ほんとのこころのあるかたがたが、ちゃんといてくださることがわかるから、たぶん、こうやっていられるのだなぁ~って、しみじみおもいます。ひとは、ひとであるから、ひとである。なあんて。ほんに、いろんなことがわかって、ありがたいのでしょうね。そういうのも、みいんなひっくるめて。ああ、それにしても。それでもやっぱりあいたいものですねぇ…。