きょうもやっぱり、動き出したらとまらない日のようです。こんな日に連れ出すとどうなるのか、試してみたら…、まぁ、それでもまだいいほうだったのでしょうが、走っている車のドアを開けたりと、いささかスリル満点でした。ちゃんと、田んぼの真ん中だけを通るルートをとっていたので、大丈夫。でした。それでも、2日前よりは多少ましなような…。たぶん、こうして一進一退(退がやや多め)で、いくのでしょうね。前の日はというと、朝からもう情緒が全然違って、それなりにピン惚けのことは言うのですが、行動がものすごく穏やか。まるで別人です。その違いはどうやって起こるのか。いまのところは、規則性やスイッチの場所などは見当たらず、毎朝、起きたら分かる、という感じです。夜の眠れ具合や、わたしの起きだすタイミング、あるいは入浴のあるなし、べんつうのよしあしなんかが影響してるみたいですが、まぁ、隔日よりはいささか悪化傾向のまま、推移しているといった感じでしょうか。あまり変化がみられないのと、くすりへの執着具合と、そしてわたしの自
然派志向もあいまって、いまのところにんち対処用の投薬は休止しています。根本には、寂しさというか、埋められない不安や怖さがあるのだろうなとは、おもいます。それが比較的治まっている日と、どうにも収まらない日と…。その中間があればいいのでしょうが、その中庸ができなくなるのが、すなわちにんちなのやもしれませんねぇ。

この前、精米と買い物を終えて、夕暮れのスーパーからでてきたところで、ふと、「あ、キャッチボールがしたい」と、こころがというより、歩きながらふとからだがそうおもったので、自分でも少し驚きました。無論、キャッチボールは、ゴルフの何倍も好きですが、でも、ずっとそんなふうに、からだを動かしたいなとまで、おもったりはしなかった(むしろ、おっくうな感じさえしていた)から、驚いた。だからといって、また浪人生のころみたいに、夕方のグラウンドにひとり(当時はさむが一緒だったけど)グローブか抱えて体育館の壁にめがけて、ひとり投げ込んだり…なんてことはしませんが。ちょっと、不思議な感触でした。おそらく、つらいなかにも、ちょっと息抜きをうまくしようなって、自然に潜在意識の声が聞こえた瞬間だったのかもしれません。要は、現状は同じでも、とらえかた、流し方、受け止め方で、千差万別、それこそ、まったく違った色にもできるってことなのでしょうね。このところの文面の通りですが、いちじおそろしくおちこんだみたいにすさんだ気持
ちだったけど、読みたい本にめぐりあえたり、いろんなひとと話す時間が少しあったり…、そんなこんなで、ひとまず、このところは、少しだけ気持ちが安らかになっています。ほんとに、毎日の家族からの手紙がなによりの、こころの命綱だったってはなしは、まっことそのとおりってしみじみおもいます。気持ちをつなぎとめるのも、目の前の試練にうまくのっかっていられるのも、み~んな、ひとつのところ、つまり、つながっているということの勇気だったりするんだろうな、っておもいます。

いつだったかな、入院のつきそいの途中で見かけた番組でしたが、わたしがいつも恰好いいといっているあの個性派の女優さんに、これまた個性派の部屋の女主が尋ねるんですね。「ところであなた、あのかたのどこがお好きになられたの?」すると、その女優さんまるで昨日の日課を答えるかのような、泰然とした空気のまま「あの、よくみなさん、そう訊かれて言われるでしょ。『すべてです』って。そうなんです。すべて。ほれたんですねぇ」。照れるでなし、余計な修飾語をつけるでなし。当たり前でしょ、ひとを好きになるってそういうことなんですよ。とでも、行間で言っているような落ち着きはらった響きが、とても恰好よかった。あれがあるから好き、これがこうだから嫌い、なんてそんなこといっているうちは、はじめから好きでもなんでもないのでしょう、って。まったくそのとおりだなぁ~ってね。これは、こんな風におもえるひととしか、話せないことなのやもしれません。まぁ、あらゆるものを超越した何か、があるのでしょうねぇ。それを、あるひとは錯覚とか、なん
とかいうのかもしれませんが。それならそれでいいし、つまりは、わかるひとにだけわかる感覚なのです。だから、どうしてほしいとか、こうならなきゃいやだとか、そういうこととは、全く違う次元。なのだろうな。うまくいえないけれど。(しんどいまいにちを、いかにして慰めるか、いかにして自分を癒すか、これでいいのだ!っておもえるか、あのひとがいるから頑張れる!っておもえるか、いっしょにいたらば、こんなときはこんなことしたらおもしろいだろな、とか…。想像力は無限のちからをくれるのかもしれないとおもいます。)