やわらかなひざしが窓越しに届いてきます。ほのぼのとしたあったかい気持ちになれます。午後のこのやさしい風の具合といい、木漏れ日のひかり具合といい、これは秋ならでは、うれしいひとときです。春の日差しはこれほどまでもやさしくなれないし。満開だった金木犀は、すこしずつ冬支度をはじめているようです。ほんに、四季のありがたさをおもいます。

裏庭、というより、裏山、あるいは裏藪に近い体裁になっちゃっていますが、栗の木が2本あって(ひとつはとても大粒で、もうひとつは小粒です)、ことしはたくさん実をつける年なんです。もっとたくさん木のある柿もそうですが。おなじく隔豊年の柚子とは、かわりばんこの恰好です。ともあれ、そんなわけで、ほぼ一日おきに(毎日だと藪蚊との格闘がたいへんなので)、栗拾いです。(しっかし、あの毬は、この世でい~ちばん痛い針のようにおもえるのはわたしだけでしょうかねぇ)。(そうそう、その実のほとんどは、はいかいの途中でまるでマラソン選手のあのペットボトルみたいな勢いで、そのほとんどが彼女の胃袋におさまってしまうのは、いうまでもないのですが。。いやはや、です。)

ひさびさに、(かつての親の台詞を借りると)あたまが腐るくらいに寝ました。しばらく、疲れていたのでしょうか。お陰で、体調も少しよいようにおもえます。たぶん、なににせよ、眠れるというのはもっともありがたい自己治癒なのかもしれません。庭にのび放題の雑草たちも、いささか勢いが衰えてきたので、そろそろとおもっているうちに、いちにち延ばしになってしまっています。いちど始めるとやるのが愉しくなるのですけどね。あとにあずければあずけるほどに、腰は重くなってしまいます。まぁいいか。

おそらく、わたしに相手をしてもらいたい。でも、すっかり寝ちゃってちっとも起きてくれない。ひとりでいても、ちっとも落ち着かない。それで、はいかいをくりかえすのでしょう。まぁ、冷たいようでもある程度はほうっておくしかありません。気に病んでもしょうがないので。こんなことを言うと、真面目に対応しているひとに叱られるかもしれませんが、ちほうの本人にとってみれば、それがそのひとが生きるためにそうならざるを得ないからそうなっているのかも。ともおもえます。こころとからだ、そんないろいろんなバランスの辻褄があわなくなって、つまりは、普通のひととおなじ範疇をこえてしまうわけですが、それはあくまで結果にすぎず、本人は恐らくそうすることで何かを癒すというか、何かを忘れるために、している。みんなが、生きることや死ぬことを真剣に考えて、諦念や悟りの境地にいかれるわけではない、ということなのかもしれません。うまくいえませんが。(もちろん、だから、好き放題させればいいわけでもありませんし、どこまでも甘やかせば、あるい
は同情し続ければいいわけでもないので。頃合いを待ってるんですが。。)

たとえば、もし。いま考えられるだけのしあわせの設計図をかいて、事細かに、あらゆる品物の銘柄や、あるいは環境や、あるいは身近に接するひとびとのひととなりや。そして、仮にそれらがそのと~おりに、実現されたとしても、それが、その状態がなんの変化もなく続けば、それをひとは、心底しあわせと感じて、その満足感を変わらずずっと永続させられるかというと、恐らくそんなことはないだろう。たぶん、しんどいことがたくさんあって、すぎてみると、かえってそのころが懐かしく感じたりすることがあるように、たぶん、試行錯誤すること自体が充実、だったりするのだろうな。でも、その最中にいるときは、とても生きた心地なんてしないし、ああもう~って、ことの連続だったりするんです。ほんに、たいへんです。こうやって、時にはやせ我慢でも、そう言ってないとやりきれないときだっていっぱいあります。っと、書いていたら、わたしの背中がよほど穏やかに見えていたのか、しずかにはいかいしていたそのひとが、またあくたいをついてからんできました。やれや
れ。あ~あ、からだがふたつあったらいいだろな、そんなあほなことを少しだけ考えたくなってしまいました。ほんに、こんきよく、いくしかないですね。