秋の月は、どうして弧がおおきいのだろう。もうすぐたいいんです。ひさしぶりに月を眺めた気がします。なんのことはない、ささやかで優雅な宵は、数日だけで、結局、こちらも泊まり込みと相成り、いろいろなんだかとってもたいへんでした。もっとも、わたしが家事のために、離れてるあいだがもっともたいへんだったようですが。そんなこんなで、むらまつりも無事終わり、留守中の大雨で、わずかだけど雨漏りが見つるおまけまでつき、思わくの家の大掃除の範囲は縮小になってしまったけど、ともあれ、めりはりのある時間を過ごせたことはうれしかった。泊まり込みのおかげで個室にもなったし。わたしはすっかり旅先気分で…。とはいえ、数日の横臥生活でこんなに足が弱るのかぁ、と、齢にはいささか驚きで。もっとも、夜になると落ち着きをなくして、注射で無理やり眠らされたせいかもしれないけれど。またまた、戻ってからが、しばらくたいへんなんだろうなぁ。涼しくなったから、多少はいいだろうけど。

と、いう感じで、なんだかめちゃくちゃとってもたいへんだったけど、過ぎてしまえば、まぁなかなかたのしかったような、そんな気もしてくるから、不思議です。疲れてるから、程よく記憶もあいまいになって、とろろ~んとした目とあたまで書いているから余計に、そうなるのかもしれません。まぁ、これも最初からたいいんの予定のわかっている身だからの、気楽さゆえかもしれません。これが、いつまでかかるかわからないのでは、仮に短く済んだとしても、その途中はとてもこんなにおっとり構えていられなかったでしょう。ほんに、今という時だけを生きていたら、こんなにも穏やかになれるのですね。これが、なかなかずっとというわけにはいかないところが、たいへん、というか、おもしろいというか、むずかしいというか…。うーん、これもほんに束の間訪れてくれた静かな夜のおかげでしょう。たいへんがあるから、ありがたい穏静があるんですね。いまという、時の波間に漂うことの至福かな、とおもいました。なにごとも、めりはりあってこそのありがたさなのですね。た
だ、日々衰え老いていくことを目の当たりにする、一抹のかなしさはあります。それにしても、ぎしぎしいってる小さな付き添い寝台で、月を眺めながらこんなに寛いでいるわたしは、少々リラックスがすぎるのかもしれないとちょっぴりおもいます。

秋という季節は、あまりに好き過ぎて、そのときのなかにいるのが、ありがたすぎるというか、もったいないと感じるばかりに、手放しで寛ぐのが下手っぴになってしまうというか…。日暮れの早さ、快適な午後の日差しが、あっというまに過ぎていくあのせつなさ加減で、余計にそう感じてしまうのかもしれません。好き過ぎてはかなさがつらくなるのか、そのはかなさもせつなさもみんなひっくるめて、たまらなく好きなのか。好きをうまく説明しつくすのは、とてもむずかしいです。何はともあれ、全部好き、ということなのだとおもいます。樹木さんのインタビューで、好きを説明したとても説得力あることばを聞いたせいでしょうか。ついついあらためて、ことばにしてみたくなりました。そうです。秋の月の弧が長いのは、そんなせつない気持ちのつまった季節だからでしょうか。なあんて。ちょっと調子に乗りすぎましたm(__)m。それにしても、毎日、こんなにおとなしく過ごしてくれたら、一緒にも暮らせるのになぁ。あ、母のことですが。