やっと、休みやすい夜となりました。さて。なにはともあれ、おぺは無事におわりました。それよりも、はいかいと、こわれたれこーどのごとくおなじ言のくりかえしで、おぺの夜は、そんなこんなの、事情により、なんとも、あいしーゆーの優遇!?で。なかなかの、優等生振りを発揮してくれております。で、あさはななじだいの出発で、夜はしょうとうごろまで。にくたいてきには、とてもたいへんなのだけど、これが、のんびりできる夜なんですねぇ。せいしんてきには、とってもこっちのほうが、らくなのが、自分でも軽いおどろき。つまり、しあわせとは、たぶん、充実のことで、することがある、時間が有限なことを実感できる、集中と弛緩のメリハリを実感できる…。なんてことの言い換えかのかもしれません。つまりは、苦労するということ。苦労がたぶん、充実なのでしょうか。そんな気もしています。要は、充実を満足と、程よい疲れや、辛抱のあとの解放がそれなのかもしれませんね。そして、たぶん、大きいのは、これが期間限定であること、永遠でないこと、だか
ら、充実も、有意義も、そして、余韻も大きくなるのでしょうか。なあんて。それにしても、どうしてこうも違うのでしょうかと、再びながら驚きです。つまり、こころのひだとひだ、感性のてあしが、う~んと、背伸びして、羽根を伸ばせている感じというと伝わるでしょうか。昼寝から起きた、猫などがするあの仕草のイメージです。
とはいえ、昼間もそれなりに、うまくできています。家にいるときのような、イライラもそれほど起こらず、退屈の、待ち続ける時間に寄り添って、おだてて、おなじしつもんに、こちらも、おなじレコードとなって返事を返し、少しずつですが、なんとも可笑しくぼやぼやっとした時間にも順応できているようです。惚けとはつまり、よけいな羞恥心や、目的と結果というような理屈や、そういった人間ならではの、思考や我慢からいっさい解放されてしまうことなのかもしれませんね。ひたすら、いまだけしかない。そう、まるで赤ちゃんと同じような時の流れ方です。ただ、常識をまとって生きていた頃の習慣や名残りが多少は、残っていて、食事の時間を気にしたり、まぁ、いろいろ理由をもとめたりするのが、そのせいでしょうか。でも、つきつめると、ぐっすり眠ることと、それの保証への安心と、そしてあとは、ただひたすら食欲の追求でしょうか。感心するほど、そのことだけに、没頭しています。もっとも、そのための、しかるべき時を待つというのが、元来苦手なひとなので、
いてもたってもいられず、気を紛らすためのはいかい、ということになるようです。いたって、シンプル。ともいえます。それに、おかねとか、先へのたくわえとか、そういう未来のためのあれこれがなくなって、いってみれば、生き物としての本来の欲求にだけ忠実な、生き物!?に戻ったというか…。当人にとっては、たぶん、それもひとつのしあわせだとおもいます。もっとも、当人はそうとはなかなかまだ思えぬようではありますが。ともあれ、ほかのひととの会話や、外空気の流入が、わたしのこころを軽くしてくれる大きな一因でもあるのは確かでして。あるいみ、とても有難い時間となっています。
で、おにのいぬまのセンタク!にも、この間にとにかく、専心。しなければならぬ、というのもあるけど、すいみんを削っても、真夜中でも、近所への騒音も気にせず、没頭できるのも、またある意味幸福なのでしょう。たぶん、きれいにするという行動も、大きく充実感や、達成感に寄与してくれるみたいでありまして。それにまぁ、昼間は半分、寝ているようなものですから…。と、いうわけで、村の鎮守のお祭りも近いこともあったりして、せっせせっせと、床やタイルや、冷蔵庫や、(ほんとは、時間が許せば、家中したいとこなのですが)いつも、ストレスを感じながらも、なかなか綺麗にする暇をもらえないので、もじどおり、きょうりょくなちらかし名人のかえってくるまで、せめて、このときでも、わずかでも、綺麗なそれなりに整頓された空間で、精一杯羽根を伸ばしているところ…。と、書いているところですが、昨日は張り切って明け方まで、整理や掃除に夢中になったせいでしょうか、さすがに、疲労感がつのってきました。
そうそう、じつは、このタイミングで、ずっと眠っていたはずの、ヘルニア君が6年ぶりに右足に戻ってきてしまいました。やれやれです。運動不足はいけませんねぇ。怠けてたのを叱られたみたいです。もっとも、掃除には支障はないし、せっせとストレッチに励んで、多少は改善しているし、それになにより、この数ヶ月の運動不足と、何日か前のスーパーでの荷物の移動が原因とわかっているし(これが、腰に痛みがくるぎっくりだったら、それこそ一大事のタイミングでしたが)。ただ、足のこれは、腰のそれと比べると、日常への支障が少ない分、長引くんですね。ついつい、痛みがそこにいることを許してしまうからでしょうか。車に乗り込むときに、じわ~っと、いやな痛みがやってきます。さいわいこの程度なら、まぁなんとかなるでしょう。それに、掃除をしている間は消えている気がするし。没頭すると忘れる程度です。とまぁ、ひとは、どうも、すこしの障害があるほうが、頑張れるみたいで…。なんとも、皮肉というか、苦笑したくなる按配です。何はともあれ、この気候
もさいわいしてるし、初秋のこない晩夏はないし、少しずつ少しずつだけど、時はきざめているということですね。
ら、充実も、有意義も、そして、余韻も大きくなるのでしょうか。なあんて。それにしても、どうしてこうも違うのでしょうかと、再びながら驚きです。つまり、こころのひだとひだ、感性のてあしが、う~んと、背伸びして、羽根を伸ばせている感じというと伝わるでしょうか。昼寝から起きた、猫などがするあの仕草のイメージです。
とはいえ、昼間もそれなりに、うまくできています。家にいるときのような、イライラもそれほど起こらず、退屈の、待ち続ける時間に寄り添って、おだてて、おなじしつもんに、こちらも、おなじレコードとなって返事を返し、少しずつですが、なんとも可笑しくぼやぼやっとした時間にも順応できているようです。惚けとはつまり、よけいな羞恥心や、目的と結果というような理屈や、そういった人間ならではの、思考や我慢からいっさい解放されてしまうことなのかもしれませんね。ひたすら、いまだけしかない。そう、まるで赤ちゃんと同じような時の流れ方です。ただ、常識をまとって生きていた頃の習慣や名残りが多少は、残っていて、食事の時間を気にしたり、まぁ、いろいろ理由をもとめたりするのが、そのせいでしょうか。でも、つきつめると、ぐっすり眠ることと、それの保証への安心と、そしてあとは、ただひたすら食欲の追求でしょうか。感心するほど、そのことだけに、没頭しています。もっとも、そのための、しかるべき時を待つというのが、元来苦手なひとなので、
いてもたってもいられず、気を紛らすためのはいかい、ということになるようです。いたって、シンプル。ともいえます。それに、おかねとか、先へのたくわえとか、そういう未来のためのあれこれがなくなって、いってみれば、生き物としての本来の欲求にだけ忠実な、生き物!?に戻ったというか…。当人にとっては、たぶん、それもひとつのしあわせだとおもいます。もっとも、当人はそうとはなかなかまだ思えぬようではありますが。ともあれ、ほかのひととの会話や、外空気の流入が、わたしのこころを軽くしてくれる大きな一因でもあるのは確かでして。あるいみ、とても有難い時間となっています。
で、おにのいぬまのセンタク!にも、この間にとにかく、専心。しなければならぬ、というのもあるけど、すいみんを削っても、真夜中でも、近所への騒音も気にせず、没頭できるのも、またある意味幸福なのでしょう。たぶん、きれいにするという行動も、大きく充実感や、達成感に寄与してくれるみたいでありまして。それにまぁ、昼間は半分、寝ているようなものですから…。と、いうわけで、村の鎮守のお祭りも近いこともあったりして、せっせせっせと、床やタイルや、冷蔵庫や、(ほんとは、時間が許せば、家中したいとこなのですが)いつも、ストレスを感じながらも、なかなか綺麗にする暇をもらえないので、もじどおり、きょうりょくなちらかし名人のかえってくるまで、せめて、このときでも、わずかでも、綺麗なそれなりに整頓された空間で、精一杯羽根を伸ばしているところ…。と、書いているところですが、昨日は張り切って明け方まで、整理や掃除に夢中になったせいでしょうか、さすがに、疲労感がつのってきました。
そうそう、じつは、このタイミングで、ずっと眠っていたはずの、ヘルニア君が6年ぶりに右足に戻ってきてしまいました。やれやれです。運動不足はいけませんねぇ。怠けてたのを叱られたみたいです。もっとも、掃除には支障はないし、せっせとストレッチに励んで、多少は改善しているし、それになにより、この数ヶ月の運動不足と、何日か前のスーパーでの荷物の移動が原因とわかっているし(これが、腰に痛みがくるぎっくりだったら、それこそ一大事のタイミングでしたが)。ただ、足のこれは、腰のそれと比べると、日常への支障が少ない分、長引くんですね。ついつい、痛みがそこにいることを許してしまうからでしょうか。車に乗り込むときに、じわ~っと、いやな痛みがやってきます。さいわいこの程度なら、まぁなんとかなるでしょう。それに、掃除をしている間は消えている気がするし。没頭すると忘れる程度です。とまぁ、ひとは、どうも、すこしの障害があるほうが、頑張れるみたいで…。なんとも、皮肉というか、苦笑したくなる按配です。何はともあれ、この気候
もさいわいしてるし、初秋のこない晩夏はないし、少しずつ少しずつだけど、時はきざめているということですね。