ぬおおぉぅ~、というようなときがいっぱいあるのは、たしかなのだけど。それでも、まぁ、こうやって、この場を借りて、こころと気分のクールダウンができるおかげで(こうして、なんでも声をだしていると、とても救われるし、読まされる方がむしろ、たいへんなのは重々承知なのですが、お許しください。それになにより、だれかに読んでもらえているかも、聞いてもらえているということで、現状はなにも変わらずとも、それだけで、どれだけ、気分が楽になるかしれません。つながっているって、ほんとに、おおきなことだと、つくづくおもいます。)と、いうわけで。ゆうべは、珠玉の一夜でした。ほかでもありません。鬼が入院してくれたのでした。といっても、ただの検査入院。しかも、うろうろ徘徊を続けて、看護婦さんをてこずらせるので、ほとんで寝るまで一緒に居て、朝も起きてしばらくしたら、そばに行かないと、というのでしたが。それでも。深夜から早朝までの、短い時間だから余計にその貴重度、ありがたさが増したのかもしれませんが。静かに寝ているだけと
も、全く違う、いないだけで、これだけ、違うものですかねぇと、おもうほど、静謐なときを享受できてしあわせでした。ひとりで暮らすというのが、どういう感じだったか、もう思い出せないほどな、日々だったものですから(ちょいと、大袈裟ですが。)なんて、いうと、家族と暮らすのが嫌なひととおもわれても困りますが。もちろん、そうではありません。それほどに、たいへんな相性なのでしょうねぇ。いやぁ。相性よくても、音をあげるかもしれません。むしろ、悪いから、いい意味で冷静に突き放せるときもあるのかもしれないと、なんでも、いいように考えませう。とても気の長いはなしですが。


さて、新たに見つかったポリープがとれたことで、はてさて、どれほどの効果がありますことやら。たぶん、人間は、異物が体内にあるというだけで、繊細な潜在意識が感じるアラームがあるのやもしれません。やたらに、いろいろなものに神経質になりすぎたり…。もっとも、母の場合は、もともとの人間性に依るところが大きいのだと、わたしなどは、冷静にそうおもうのですが。看護婦さん曰く、このお年頃のひとたちは、若いときの無理(つまり、自分を抑えすぎたり、無理に周りに迎合する時期がながかったひとほど、老いてからの理性の紛失度が高まるのだそうで…)をしているから、仕方ないのだとか。。。まぁ、こうなってみると、まぁ、このひとの場合、大人しく徳を積んでいくおばあちゃんは無理だったよねぇと、納得もできるので。仕方ないといえば、確かに仕方ない。それにしても、内と外を完全に使い分けるようたタイプの人は、ほんとに家族がたいへんなのは、違いありません。どうして、自然体でいつもいられないのか、うそをついてまで自分を良く見せようとする
のか、わたしなどは、そんな恰好のわるいこと、頼まれてもぜったいに嫌だとおもうけど。長年培ってきた、習慣というか、こころのくせは、どうにもなりませんねぇ。だから、ますます、恰好いいひとと、そうでないひとの違いは歳を重ねるほどに顕著になるのでしょうが、こんなところで、納得しても、それこそ、仕方ありませんね。


決して、早く衰えて欲しいと、積極的におもうわけではありませんが、でも、いいいぃ~と、わめかれているときには、かなり本気でそうおもっている瞬間がないわけでもありません。でもまた、おとなしくなっているときには、あぁあ、にんとも、どうしようもないなぁ~と、ため息をついている。ほんに、ひとは、割り切れない複雑な生き物です。もしこれが、穏やかで、やさしくて、いつもこちらに気を配ってくれるようなひとであったりしたら、いわゆる病巣だけが、かえってもっと進化したりするものなのですかねぇ。ほら、憎まれっ子なんとかともいいますし。それでも、深夜、寝息の呼気から発せられる独特の臭気は、晩年の父のそれに似ていなくもなく、やっぱり、胃のそれは、決していいものではないようだし。いまのうち、冷蔵庫にかじりついて、手で食べ物にがっつくのも、なるべく、ほおっておこうかな、と、そんな気にならないでもありません。そもそも、わたしが、一口食べる(とりわけ、わたしは、美味しいものほど、ゆっくり食べたいし、同時に満腹すぎるほうが
、軽い空腹よりつらくていや、というタイプなので)、あいだに、かのじょは、10口くらい食べ終えて、おまけにこれ以上口に入らないくらいにつめこんでいる。味も素っ気もない食べ方です。ひとがでますねぇ。食べるという行為にも。なんだかなぁ。世の中、いろんなひとがいて、恰好わるいひとは、たとえそれがわかっても、きっとそれを続けるしかない。きょうれつな、皮肉ですが、あえてなるべく醒めた目で見ることで、ときどき、しんどいこころを逃がすようにしています。


気持ちがいい、感じがいいというのは、つまるところ、そのひとの内外を流れる空気の流れ方・有り様をいうのですね。時間というものを、たとえば、葉巻の豊穣な香りのようにゆっくりくゆらせることができる。ほんとは、そこにはいっぱいのやせ我慢や、その他もあるのだけど、それらをひっくるめて、時間をみにまとうということ(ではないかな。)。ほんとうに、たいせつなものは、いつも形としてはみえないもののなかにあるのですね。それから、もうひとつ、この間におもったのは、みんな余白だ空白だと、“老い”を冠してありますが、余白や空白というものは、べつに、老いてから突然現れるわけではないのでは。いくつだろうと、感じられる人は感じられるし、そうでないひとは、いくつになってももてあましてしまう。ふとそんな気がして、ふと考えてみました。(ひぇ~。またしても、とんだ長広舌です。)