こんどは右に、海と観覧車が見えてきました。ちょうど前日の今ごろです。まるで、締め切りにおわれてる漫画家さんみたいな感じで、いささか慌ただしい時間でした。全部あわせてもふだんのいちにちぶんにもみたない睡眠時間で。なのに不思議と眠気がやってきませんで。無論、疲労感はあるので時おり休憩はしていましたが。軽い緊張じょうたいにあったのでしょうね。とくだんのわくわくどきどきともちがい、かといって、疲労困憊やいやいやとも違う不思議な充実感、とも言えるでしょうか。むしろ結構、たのしいような、そんな時間でした。むろん、早朝や深夜に聞こえてくるいつも(きいていた)の音に軽い哀愁が漂わぬでもありませんでしたが。なにも永遠のわかれでもなし、と淡い情緒を叱りとばしていました。悲哀はときに、はじにおいやらないと、前向きに何ごともこれ好転の兆し、と考える意思に水をさされてしまいます。なあんて、ともあれちょいと大げさな旅情にひたりながら、変化や清掃をたのしんでしまっていました。我ながら、ちょっとあきれた能天気です(い
やぁ、もちろん悲哀にひたりたいノスタルジーを必死で封印してたのですけれど。でもふしぎとなんだか大丈夫な気がしていて。。)。ともあれ。

広くなった部屋のなかで、のんびりできるしあわせをかみしめて。身軽な状態がこころにくれるなんともいえない安心感があります。だから、ひとは時には旅でリフレッシュするんだと、しみじみ感じました。おやおや、すっかりひとり呑気な饒舌になってしまいました。すみません。ひとのきもしらない馬鹿がつくよなのんきものとしかられてしまいそうです。こういう時間がくれるエネルギーとか初心のような新鮮な空気は、案外ちからもちなのかもしれません。たぶん、たぶんですが、信念というのは、いつもしゃかりきになってからだ中にちからをいれていないとなくなりそうなものではなくて、ふっとちからを抜いて深く息をはきだしてもなお、自然な姿勢でそこにさりげなくあるもの、なのじゃないかなぁ。とてもそんな気がします。

急がず慌てず、ふだん目の前のことと、時にはいらいらもしながら格闘しているときも、消えないものはいつもそこにあるんですよ。あたりまえすぎてつまらない、もっと情熱的なことばをあふれさせなきゃっておもわれるかもしれませんが。たぶん、なんとかなる気がします。(やっぱり呑気が過ぎるでしょうか。)みっかぶんの贅沢な眠りをとることのできたあとだから余計に、こんなふうに誘致にかっこつけてられてる気がしないでもないですが。ともあれ。少しずつ少しずつ、時にはおこったりかなしんだりもしながら、でもおもいを伝えることのできるしあわせ、ありがたさです。なくなることのない実感ほどうれしいものはありません。

そうそう、朝のドラマの方はいよいよクライマックス、いちばんの佳境にさしかかっています。とても勇気と元気をもらえる内容です。いつか過ぎてから、印象深い作のひとつになることだろうなぁ。そう感じながらみています。そういえば(ついでに)、いざというときは、案外おんなの方がはらが据わっているものなのかもしれません。そう白洲さんが言われていたとか。前日の今ごろ、『次郎と正子のことば』で、見かけました。(あれれ、書いて安心したら、また眠たくなってきてしまいました…(・・;))