なにか、なにかほんとにつまらない愚痴でもいいから、はきださないとからだにもこころにもよくないのはわかっている。なのに、日々、驚くほどのスピードで時間が過ぎていき、あまりこころの深い部分までがとりちらかってしまわないように、刹那せつなにこころに去来する文句はただやりすごすほうがいいこともまたわかっている気がして。結局、半ば考えることをやめている。そのどうしようもないやるせなさに、少しずつ馴れてきてしまっているのがまたかなしいのだけれど。

そもそもおんなどうしのかくしつなどにこたえはないとおもう。うまくやりすごすか、適度にけんかしながらそれでも時間を待つか、完全に相手にならないか、たぶんそのどれかしかない(だろう)。わたしの場合、ひたすら回避することにだけ恵まれてきたから、たぶん仕方のないことなのだろう。てきは相変わらずだけど、かつてのような言葉の暴力はあまりないし。ただ、行動がいささか問題というだけで。あっという間に1日が過ぎるくらいだから、まぁたいしたほどではない。いずれにしても考えて、互いがいかに異なる生き物であるかを分析してみても始まらない。(小説だったらたぶん面白いだろうけど)

そうはいっても、一生続くわけでないことはわかっている。いまはそれがとても想像できないだけで。あまり動かないので、わたしまで入院中みたいで、恐ろしくからだがなまっているのがわかる。でも、そこらへんでしあわせなわかもののふりをしてスポーツに汗する気分になどとてもなれない。目下の懸案は、自宅のにもつを自分で運ぼうかとよからぬ知恵が浮かんでしまったことくらいだろうか。そのことを考えるとちょっと気が滅入る。労力がいやというのではもちろんない。そうではなく、うまく言えないがやっぱりかなしさで胸がつぶれそうになる。なにを大袈裟な、いのちを失うわけでなしと、自分でもおもうけど、なにがそんなにいやなのだろうと、自分でも細かく分析してみたくさえなるけれど。とくだんほかに夢があるわけでもないのに(ひょっとしたら、それがだめなのかなぁ)、それに出口のない海ではないかもしれないのに(ひょっとしたら、だれにもわかりえない可能性がまだあるかもしれないのに)、自分ではまぁ、あまり前向きではない想像に圧倒されてる時間の
方が多いのに、それでも自分では、まだこの程度ならなんとかなるんじゃないかとも思えるし(いや、その根拠のない楽観がきけんなのかなぁともおもえるが)。ともあれ、これだけうだうだ(ことばのない状態)していること自体が自分自身の冷静と情熱がとうのむかしに眠っているしょうこなのだろうか。どんな日々もいつかは終わる。そして、生きるってのは、たぶんそういうことの繰り返しなのでしょう。かなしいですね。(ことばのない日が続いています。)