カーテンを揺らす夕べの風がここちよい季節になった。こころの風邪はというと、いまひとつ完治しきれない感じ。沈黙するのも、いささかこたえる。うまく、ことばにして転がすことができるといいのだろうが、この風邪をひくと、そこいらへんの息継ぎがすこしむずかしくなってしまう。
たぶん、ひとがまよったり、くよくよしたりするときというのは、潜在意識と顕在する表層のそれとの間の、おりあいがうまくいっていないというか、綱引き状態がストレスとなってあらわれるのかもしれない。きっと、理屈や大義名分やいろんなあれこれが言うことと、こころの底の気持ちが感じる快不快とか、矛盾してしまうのだろう。あるいは、迷いというのは、今考えくよくよ思案してしていることに正解がないことを、潜在意識が教えてくれているヒントのようなものなのかもしれませぬ。まぁ、理屈はともあれ。いずれにせよ。どうして、ひとはまだわかりもしない先のことばかりを考えて、いたずらにこころを揉んだりしてしまうのでしょうかねぇ。
たとえば、たばこを吸うことがそんなによくないことなのか、わたしにはいまいち理解できないが、いつの時代も、ひとはなにかを悪者にしないではいらないのかもしれない。たばこを悪者にしないとほかにないくらい、あるいみ、少なくとも物質的には豊かで穏和な状態、なのでしょう。もっとも、こころの平和とその平和とは、必ずしもいっしょではないとおもいますがね。そう、ひょっとしたら、たばこをきょうこそきょうこそ、やめようと思いながら、決心を一日延ばしにしているのに似ているのかも知れぬと、勝手にたとえを浮かべて苦笑した。寿命だけはだれにもわからぬ、でも、あともう少し一緒にいてあげらる時間を増やすのがいいのだろうな、半年でも一年でも、というのはいささか表現が適切ではないかもしれぬが、それでも一度そばにいてあげるべきなのだろうか。あっちに揺れたかとおもうと、いやいや、することを奪ってしまったらかえってよくないかも…、結局、毎度不毛な心の中の平行線が続く始末。おまけに、自分でもいささか不思議な発想だが、いまはなるたけなるたけ極力、やりたいこと(といっても格段におもうのがあるわけでもないのだが)を、やらずにいようと、おとなしくおとなしくしていようと努めているものだから、心が感じるジレンマの根源がいったいなんだかさっぱりわからず、自分でもお手上げで。(こんな気詰まりな文句を聞かされるほうがさらにもっとお手上げに違いありません。)
つまりは、そう、書かなければ書かないで気詰まりなまんま、書いたら書いたで、明るい話題はいまいづこで、結局は気詰まりな話を手がひとりでに綴る始末で。なんだかな。おばさんの憂愁もこまったものです。われながら。ときに、さらにお馬鹿な発想をしてしまう。ものすごく忙しい状態にもちこめば、とか、さらにもっと辛い状態に自分をもっていけばいつしか目の前の悪戦苦闘に、つまらぬ憂愁などどこかに消えちまうのではなかろうか、とか。引越しやさんとか、長距離ドライバーとか、ひたすらたいへんなことをしてみようかとか。まぁ、そんなことをしてからだをこわしては元も子もないのはわかっているのですけれど。時間薬のじんわり効いてくるのを待つよりないのでしょう。でも、老いの進行だけは待ってはくれないし。ううう。どうしたものざんしょ。書けども書けども、同じことばかりを綴ってしまう自分の弱い根性がちょいと、情けなく、でもちょいといとしくもあり。。。にんとも、かんとも。