なんだか、肩にばかり力が入って、ちっともスムーズな調子で球が投げられないで居るキャッチボールになってしまって、申し訳なく。痛いほど、わかっていることはすでに互いにわかっていて、でもそのうえで、なんとか、気持ちをほぐしたり、頑張る励みになれたらいいなと、時には自分自身へ安らぎを贈るつもりで、書いているはずが、ときとして、ひとりきりの暗いトンネルに勝手に入り込んでしまって、右往左往。わたしはいまどこ?となってしまう。そして、考えながらふと気づく。おや。考えるって、そもそも教えられてできることじゃないんだってね。何をどう考えるとか、思索するとか、そういうことって、喩えは悪いが、最初は見よう見まねでもひとりでに、おもったところにボールに投げられるようになるのと似ている。その場所へのコントロールは決して教えられるものじゃない。投げられる者は投げられるし、そうでないひとは、残念だが多分そのコントロールはむずかしい。そういう、小さなちいさな気づきも含めて、いろんな右往左往や、時には苦労や苦悩をかっているうちに、知らず知らずにわかっていくことが増えていく。そして、ことばの大きさや、意味や、そのすごさを知っていく。
それと同じで、たぶん、いわゆる、やさしさというのも、自然に内からでてくるもので、気持ちがそうさせるものであって、こうしろああしろと命じられて強制されてするものは、もはややさしさでもなんでもないわけで。つまりは、ひとのためとか、見返りのためとか、そういう発想があったらもう、80円でアンパンと交換するのと同様のことになっちまう。なので、たぶん、理屈ではないこころざし、というか、こころのありようのことをやさしさというのかもしれない。別に、いいひとを演じてしているならそれは、やさしさでもなんでもない。そういう意味での、ほんとうの自然体を保持すること、矜持をもつこと、芯を失わないことは、これ、とても深くてたいへんでむずかしいけど、すごく意味があって簡単ではない。得てして、ほんとうのやさしさはなかなか簡単にはわかってもらえないものだ。それに、わかってもらおうとおもってもたぶんいけないのかもしれない。だから、わかるひとにだけわかるので、価値があるしかっこいいのだろう。わかるひとにだけ通じる魔法の言葉みたいだ。
ときどき、そういう世事とは少しは離れたところの思索の空間が、こころのなかで、なんだか目の前の苦痛にさいなまれているうちにすっかり酸素を失い、何年かに一度くらい突然上陸してくる、こうかいという名の嵐におそわれることがある。もっとも、最近ではそれはさほどながくこころのなかにとどまらず、すぐに海上に抜けてくれるのだが、それにしても、ときどき、ひとは、立ち止まって過去という名の大海を見渡し、あれがよかった、これはいけなかったと振り返りたくなるものらしい。そうして、ためいきをつきながら、ああ、あれがなければなぁ~、とか、あそこで辛抱してれば、いまごろもっと楽珍だったのかなぁ~なんて、まるで、へたっぴのゴルファーと変わらぬたらればをひとしきり、口上したくなるからおかしい。過ぎたことをあれこれ、おもっても仕方ないのに。どうして、こうも、あれこれ考えたくなっちまうのでしょうねぇ。もしかして、そのたらればだったら、ひょっとしたら、もっと想像も付かぬ苦難に巻き込まれていたかも知れぬのに、ひとはそうは考えないで、きっともっとよかったに違いないとばかり考えたがる。過去の失敗や苦難があるから、いままだこうして生きていられているのかもしれぬのに。まったく、ひとはどこまでいっても、どうもなんでもむずかしくむずかしくしてしまう生き物のようです。
少し、乱暴にいってしまうと、まちがいなくみんないつかはしんじゃうわけで、どんなにたくさんものに囲まれようとも、どんなにたくさんの勲章を手にしようとも、いつかはまわりのひとびとの記憶のなか以外のものは、みんななくなってしまうのに。時間はいつかおわるのに。その残り時間の余りの偉大をつらいとおもうか、もっともっと愉しみたいなとおもうかは、そのときどきのこころ模様で。なのに、どうして、こうもああどうしようこうしょうと、迷ったり悩んだりするのでしょう。我がことながら不思議です。やっぱり、少しでも自分をよくしたい、いい時間をもちたいとおもうからこその願いがそうさせるのでしょうか。いつかは、おわりがくるんだ、どんなつまらぬ苦しいだけと思える時間もいつかは、終われる。そうおもって時をやりすごすときもあれば、あともうすこしもうすこしでいいから、この楽しい時間のなかに包まれたままでいたい、とおもうときもあるだろうし。目に見えない時間というもののなかで、ひとができることってなんなのだろうなぁ、って、考えているときの時間もまたひとつの時間でして。できるなら、なるたけ、あほなこと、つまらぬくだらぬといわれるおもろいことを考えて、あっけらか~んと、過ごせたらいちばんなのでしょうが、これまた、毎日が夏休みではきっと、ほんとのしあわせが見えにくくなってしまうでしょうから、工夫が必要でしょう。いずれにしても、時間を共有できるよろこびは、これに勝るものはないのでしょうねぇ。ふと、そんなことを少しつらつらとおもっていました。