ひとあめごとに温かくなるはずが、なんだか、極端に寒かったりあったかかったり。こんなだと、さくらのつぼみさんも、さぞかしこまっているようなきもしてきた。もともと、おんなどうしのおしゃべりは、肝心要の芯の部分を抜いてしゃべるのが慣例で。というようり、本能的なものかもしれませんが。ともあれ、抜いてはいても、おんなはみんなちゃんと直感なるもので、だいたいをわかっていて、それで、それぞれが自分に都合よく解釈することで、仲良さや、コミュニケーションの潤滑をはかっていたりするところがあるんです。と、まぁ、まわりくどいですが、いいたかったのは、芯の部分はいっさい変わらないからこそ、平気で、あれだけ、ときには飛躍しすぎた会話まで平気でできたりもするわけで。それを、みいんな、大袈裟に一字一句厳密に検討されると、それはそういう意味でいったのではなく、仕事といっても世間一般のそれを意味したのではなく、つまり、家に居てそこを居心地よく整えるのだって、立派な仕事ですよ、ということを言いたかっただけということもあるんです。なので、ときどき、おしゃべりがすぎたあとで、いろいろ反省をさせれます。書きながら考えが浮かぶ、むしろ、書くという行為が、あたまのどこだかに知らず知らずに働きかけて、気づくと書き始めた時点ではおもいもよらなかった、妙案や観点が勝手に浮かんで、勝手に手が書いていたり、ということがあるように、おんなのおしゃべりは、しゃべりながら発想の筋トレをしているような、まぁとてもある意味とても勝手な代物ではあるのです。
ことしもまた、変動の季節なのか、人生そのものが変動の中に浮いているだけなのか、そこらへんは、よくわからないけれど、たぶんそれなりにいい方向への小さな変化が続いている。これは、ごく日常を支えている部分でのお仕事のはなしです。こころの変化という意味ではないので。念のため。いずれにしても、気の持ちようであるのだと、どんなときでも、うまく目の前のことから逃げずに対処してけば、必ずなにがしかのことができるのであり、それがまた、経験になり、あるいはいい気分転換、もしくは、無礼な言い方をお許しいただくとすれば、暇つぶしともなり。自分のこころがいやだいやだとおもうことばかりを、自分に強いることが必ずしもいいことではないし、でもかといって、逃げることはまた別で、それはいけないともおもう。いろいろやりながら、学ぶことも多いわけで。少なくとも、二十代のころよりは、幾分、何事にも、ゆとりや余裕をもって対処できるようになった気がする。もっとも、二十代は自分をときに離れて見たりすることなんてなかなかできなかったし、お給料をもらって社会勉強をさせてもらっているんだと、自分を慰めることで精一杯だった。そして、やっぱり、家族のことをしっかり向き合ってはじめて、気づけることや知らず知らずに学べることが大きいのだなって、つくづく感じる。恐らく、同世代の多くの人よりは早く、親の老後、介護という現実に向き合うことが、いろいろな意味での貴重な時間となってくれているような気もする。
そして、愛についても。と、ここからが本題なのですが、照れくさいのと、もう遅いのと、湯冷めしそうなのと、言い訳だらけですが、これだけ遅くに熱くなって書いてしまうと、朝布団の中で、どうしようもなく恥ずかしい思いにかられてしまいそうなので。きょうは、このへんにします。それについては、またこんど、きちんと書きます。